大掃除は延長戦。徒歩三秒の三年前。

住所というのは思っている以上にわかりづらい。似たような名前のマンションが乱立していたり、高架を挟んで番地が飛ぶこともあったり、番地が同じ一軒家が何軒も連なっているなんてことまである。更には今どき、ほとんどみんな表札に名前なんて書かないものだから個人の特定が難しい。
住所の代わりにもっと柔らかい表記がもうひとつあればいいのにと思う。
「大阪府XX市XX町 ちぃかわを祀りあげてる白い家」
こんな表記があればわかりやすいのにね。近所は怖いかもしれないけど郵便配達の人はすぐわかるよ。引き継ぎもすぐ終わる。
「ほら、ベランダでちぃかわが光ってる家あるだろ。そこ」

魚には水が見えるんだろうか?
ずっと疑問を抱いてる。
魚は浮き上がっていく気泡を不思議な空白だとは思っても、空間を満たしている水を水だとは思わないんじゃないだろうか。
おれも、いま目の前を満たすはずの空気に目はいかない。
どこかの鮎もそうなんじゃないだろうか。
釣り上げられた時なんかに
「うわ、なんじゃこの空白だらけは〜!」
って思うんだろうか。

節目になるような、イベントごとがあると、気づくと三年と半年ぐらい前に戻って、涙が出ている。年明けなんかはまさにそうで三年と半年が折り畳まれたようになって今に肉薄する。そうして涙が出る。
時間とは折り紙のようなものだ。山折りと谷折りを組み合わせれば重厚な時間が出来上がる。
時間の進むのが早くなったと言うけれど、それは折り目のない、平坦になったということだ。青学山の神の出番なし。

三年と半が経って、おれはたいして何も変わらなかった。でも三年と半が経ってわかったこともあった。おれはこのようにして生きるしかないということらしい。今はとても楽しい。馬鹿みたいに飲む友達がいる。ささやき声で話し合う友達もいる。じゅうぶんじゃないか。満たされている。このようにして生きていきたい。
みんなありがとう。おれはとても生かされている。みんなにありがとうの気持ちが膨らんで今にも爆発しそうだ。

また平和に歩くよ。道端の落書きを探しながら。おわり。

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