小説「電話ボックスで泳ぎ疲れる」

 その日、駅の改札口近くの壁にささっていたタウンワークを持ち帰ってバイトを探していた俺は『電話ボックス撤去』の求人を見つけて、二時間悩んでから電話をかけた。
 電話口での質問は
「体は動くか」
「物忘れは適度にするか」
 というもので、正直に答えるとそのまま採用となった。

 俺の作業パートナーは後藤というおっさんで、これが後藤との三回目の仕事であった。後藤は採用後すぐに免停になったということで、長い撤去ルートの全てを俺が運転させられていた。どんくさいおっさんの後藤は皺が刻まれた威厳あり気な顔つきとは対照的に、話し出すとハイトーンな声で落ち着きもまとまりも無く話した。そして、明らかに歳が二〇は離れている俺にも敬語を使った。

 ブレーキランプに捕まって車を減速させられたところであった。後藤がこちらを向いて口を開いた。
「松岡さん知ってますか、日本の権力の構造っていうものを」
「はあ」
 マクドナルドが作り出すドライブスルー渋滞に辟易しつつ相槌を打った。
「三権分立ってあるじゃないですか、でもね、あれもね、なんていうか、三つが全部一緒に、、、共謀? しちゃったら意味ないじゃないですか。だからね、えーと、そうだな、なんていうか、あれだ。監視ですよ。する必要があるんですね」
 そこまで聞くあいだに車は交差点を抜けていた。
「だからね、監視する機関。ちがう。え、権力。監視する権力としてですね、メディアがあるんですよ。メディア。メディアってわかりますか」
 後藤はこちらを窺っている。返答を待っているらしい。
「メディアっていうのは、あれだろ。テレビとかネットとか、そういう媒体を使うマスコミとか」
 後藤はキツツキみたいに忙しく頷いた。眼鏡がずり落ちてしまわないか心配してしまう。
「そう、そう、それでね、そうなの。メディアっていうのはそういうもの。そのメディアがメディアを、違う、なんだったっけ、監視するの。だからメディアッは権力のことを報道するんだけどね」
 後藤は延々と話し続けているが俺はほとんど内容を聞いていなかった。後藤と仕事をする時は毎度こういう調子になってしまう。
 後藤は話すのにひと通り満足したのか、胸ポケットに手を伸ばした。煙草を取り出すと、急に眉間に深く皺を寄せて渋い顔で煙草を吸った。いつもどこか不機嫌そうな顔で煙草を吸うのだ。俺はその顔になぜか妙に苛立つものがあった。

 電話ボックスの撤去。
 これは主に二つの段階に別れる。
 最初に電話機を取り外す。緑の電話機はネジで台座に固定されている。このネジはいたずら防止などのために特殊なものが用いられているので、専用の工具で取り外す必要がある。この専用工具の扱いが少し難しいのだ。扱いに長けているのは後藤の方で、後藤は手首の先を器用に使ってネジを外した。不思議なのは手を使うだけで良い作業であるはずなのに、脚の踵がピンッと上がるのだ。指先と踵が連動するおっさんを後ろから眺めて三分ほど経つと取り外しの作業は終わる。
 次に、電話ボックスを畳む作業がある。こちらはまず、床の一部にパテが塗り込まれている部分があるのだが、ここにヘラを刺す。パテ部分は縦横一〇センチほどあって、ここをはがすと隠されていたビニールの床と吸入口の蓋が現れる。吸入口の蓋というのは海に持っていくビーチボールの空気を入れる口に付いているような蓋。あのビニールの少し透明なキャップである。あれが電話ボックスの下には隠されているのだ。この蓋をポンッと外すとシューッと空気が漏れ出て、電話ボックスが萎んで全体がよれていく。
 俺はこの作業の担当していて、蓋を外したら俊敏な動作で電話ボックスから出た。そしてどんどん萎んでいく電話ボックスを腕を組んで見守る。後藤はだいたいこの時には軽トラにもたれかかっていて、不機嫌そうな顔で煙草を吸っている。
 電話ボックスは萎みきると灯油缶ほどのサイズになる。空気が抜けたからといって重さが変わるわけではないので、これは相当に重い。軽トラの荷台に積むのは二人掛かりでの作業になるが、毎度骨が折れた。後藤が真っ赤な顔で眼を剥いて電話ボックスを運ぶのと向かい合うたびに、この顔を写真に収めればなんらかの賞を取れそうだと思った。

 灯油缶サイズになった電話ボックスを五個積んだ軽トラックで堤防を走っていた。気温は下がり切っていて、凍えてしまうほどの外気であったのだが、後藤が煙草を吸うために下げた窓からはどこか芽吹くような暖かい匂いが入ってきた。
「なんだか良い匂いがしたな」
 後藤は窓の向こうを覗いた。あるのは河川敷ばかりである。背の高い雑草は倒れて、開けた河川敷が川まで続いていた。
「あれですかね、あの、晴れてますからね、バーベキューでもしてるんですかね」
「こんな寒いのにバーベキューなんてするかよ」
「でも、知ってますか、テレビで見たんですけどね、あの、BSの方でね、チャンネルはどこか忘れてしまったんですけど、キャンプっていうのは、冬にするものらしいんですよ、冬にね、テント張って、火をおこすっていう」
「権力で見たんだ」
「そう、えっと、さっきの話ですね、えっと、なんだったかな、権力構造っていうのは」
「いいよいいよ。だいたいわかったよ」
 話が終わると、後藤は待ちきれないといった勢いで煙草をくわえて、火をつけた。

 陽もとっくに暮れた。ナビが案内を間違えるほどに何十回も住宅街の中を曲がった先に電話ボックスはあった。電話ボックス内部の直管蛍光灯は電話機に真っ直ぐ白い灯りを降ろしていた。
 先に電話ボックスに入った後藤が工具を持って体を電話機の後ろに潜らせる。踵がピンッと上がった。
「ありゃりゃ」
 後藤が頓狂な声を挙げる。
「どうしたの」
 後藤が工具を当てる軽い金属音が鳴りはするが、作業が進んでいるような様子はない。
「工具が、合わないかな」
 馬鹿なことを言うな、俺はそう思ってネジを観察した。確かに、さっきまで回収してきていた電話ボックスの物とは少し違うように見えた。後藤はしばらく粘ったが諦めて電話機の後ろから体を戻した。
 俺は電話機は外せなかったが、電話ボックスを萎められるか確認するために床を観察した。大抵、四隅のどこかにパテで覆われた蓋の隠し場所がある。しかし、この床はどこも硬いコンクリートで出来ていて、ヘラを刺せるような柔らかい部分は見つからなかった。 
「たまにあるんだよなあ、こういうの」
 後藤がぼそりと呟くのが聞こえた。俺は屈んだまま振り返ると、後藤はビクついてヘヘっと愛想笑いを作った。
「前にも?」
「ええ、なんていうか、あれはすんごい田舎でしたね、高速にも乗りましたから、そしたら、そこもネジも違って、蓋も、蓋も違ったんでね」
「その時はどうしたの」
「本部に確か電話したんじゃないかな、ええ、そうだそうだ。相方の人がやってくれたんですけどね」
 後藤に任せていては電話がいつ終わるかわからない。その時の担当者に遅ればせながら同情した。

 本部の担当者は五十嵐という名前の女性であったが、実際に会えたことはなかった。というより、本部の事でわかるのは住所と電話番号ぐらいのもので、本部でどれだけの人間が働いているのかもわからなかった。
「お疲れ様です。松岡です」
「お疲れ様です。どうかされましたか」
 涼し気なコロコロと鳴るような話し方を五十嵐はした。
「なんて言っていいのかわからないんですけど、ボックスのネジが普通のと違うみたいで工具が合わなくて、あと床の蓋もそもそも見つかりもしなくて。作業のしようがないんですけどどうしたらいいですか」
「ほお、なるほど」
 五十嵐が電話の向こう側で離れた。誰かに相談する会話の音がくぐもって小さく聞こえてくる。俺はなんとなく落ち着かず、電話機のナンバーキーを当てずっぽうに押しながら返事を待った。ボックスの外では煙をくゆらせる姿がある。
「お待たせしました」
 誰かと相談していた時のロートーンな調子から一転して、ハイトーンな気持ちの良い発声で五十嵐は戻って来た。
「その電話ボックスはそのままでいいです。回収せずに今日は引き揚げてください」
「いいんですか。こいつは」
「無理に日本中の電話ボックスを畳む必要もありませんから」

 帰る時にも車は住宅街を切り刻むように複雑に進んだ。この住宅街には新陳代謝の跡がちらほらと見られた。三階建てのアパートの壁にすでに取り壊された隣家の影が残る。日焼けの逆、常に影が当たっていた場所には亡霊のようにくすみが残る。住宅街にはそういう場所が多い。そしてそのくすみを隠すようにして新しい住居が建つ。洗練された形ながら画一的で面白味のない住宅が古い家屋の隙間を埋めるようにぽこぽこ生えてくる。どこの住宅街も同じようにして何かをサイクルさせていた。
 住宅街を徐々に抜け出して大通りに近づくにつれて、そのサイクルは早まるようにコンクリ造りのいけ好かない一軒家やらセキュリティ万全が売りといった新しいマンションなんかが増えてくる。代わりに木造建築などは端に隅に押しやられるようであった。

 テールランプの川の中を走らせていた。
「ラジオで、ええ、昨日だったかな、ラジオで聞いたんですがね」
「また権力だな」
「そう、メディアはですね、えっと」
「なにをラジオで聞いたの」
 遮るように尋ねた。
「そうですね、そっちでしたね、あのね、ラジオで聞いたんですがね、新しいタイプの携帯、携帯っていうのはさっきも電話してたあれですけど、それの新しいのが流行ってるらしいんですよ」
 俺はポケットから携帯を持ち上げて開いてみせた。
「これがどう新しくなるっていうの」
「ええ、なんだか、なんだったかな、不思議なことを言ってましたよ」
「足が生えて歩き出してくれるのかね」
「そんなことは言ってませんでしたけど、でも、そうだ。全部が画面なんですよ」
 いよいよこのおっさんは何を言い出すのかわからない。俺は呆れて少し笑った。
「全部が画面なら操作できないだろ」
「なんか、その画面を触って操作するみたいなんです。それが海外から流行ってるって」
 珍しく興味深い話だった。画面を触る新しい携帯。今持ってるこの携帯の進化版が出ているのか。携帯ストラップの先にぶら下がるワリオを揺らしてみる。しばらく車を走らせながら、新しい携帯のことを考えていた。画面を触る奇っ怪な携帯。
「後藤さん」
 俺にはひとつ確信があった。
「そんな携帯は売れませんよ」
 力強く断言した。
「画面なんか触ってたら指紋でベタベタになる。我々綺麗好きの日本人が、そんなもの我慢できるとは思えないな。そうでしょ」
 俺は助手席に自信を含んだ目をやった。
 後藤は窓から頭を少し出して時速四〇キロで過ぎ去る空気に煙を吐いていた。不機嫌そうに。
「えっ、あっ、なんか言いました?」
「いいえ、なんでもございません」
 俺は手が出そうになるのをぎりぎりで堪えてハンドルを握った。

 次の日から、本部と連絡がつかなくなった。
 そのようにして電話ボックス撤去のバイトは終わった。後藤とはその仕事以来、会っていない。
 そして今、どれだけiPhoneの画面から電話ボックス撤去のバイトを探してみても、そんな求人は見つからず、過去にあった痕跡すら見つからないのであった。

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