小説「手鏡は喋った」

 大尉への救命措置が凡そ手遅れに陥っていた頃、塹壕を支配していたのは途切れない砲撃の音であった。私の耳はとうの昔に役立たずになっていたが、私に声をかける余裕のある者もないので心配はなかった。
 私は大尉の識別バッヂを引きちぎり、トーチカへ逃げ込んでいたサイードへ投げた。サイードへバッヂが届くのとほぼ同時に私はトーチカへ飛び込んだ。先程まで私と大尉が居た所へ砲撃が直撃するのは一三秒後のことであった。

 昔から、サイードは砲撃が終わらない間、決まって嘘の昔話をした。同期組も最初の内は本当の話だと思って真面目に耳を傾けたものだ。しかし話の辻褄が三回目で合わなくなって、その場限りの出鱈目な昔話だということに気が付いた。同期組はその時点ですでに三人減っていた。
 サイードは私に、いつもの通り昔話を始めた。

 昔、叔母さんの家が近くにあった。叔母さんは行商で生活をしている一家の生まれで、叔母さんも行商に出ていた。叔母さんが売る物は様々で、古いレコードや古本であることもあったし、どこで仕入れてきたのか最新型のスマートフォンを売って歩くこともあった。そんな時には近所の大人が取り囲んで我先にと買いに走ったものだが、叔母さんはなぜか一個分は取り置き分を作って持って帰ってきた。サイードは不思議に思いながらも、その取り置きされた一つをよく触りに行った。
 その日は、珍しい喋る手鏡であった。手鏡のくせに喋るのである。叔母さんの家に入ったサイードを見た途端に「なんだこの頓智気は、こういうやつが本を読むなんてホラを吹くのが一番に気に入らないんだ」となじってきた。サイードは腹を立てたが間違ったことは言っていなかった。サイードは父が観ている映画を横目で見ては、本で読んだことだとして映画の内容を友人に触れ回るのであった。友人たちも古い映画の内容など知らず、珍しい事として興味津々に聞いてくれたのであった。サイードは手鏡に対して顔を真っ赤にして怒ったのであるが、叔母さんはむしろ怒っている様子がおかしいようでカラカラと笑って安楽椅子を揺らした。
「どうだい。憎たらしく喋るもんだからね。絶対にあんたと喋らせてやろうと思ったんだ」
「へっ、年金が満額いただける世代は気楽なもんだ」
 手鏡は叔母さんにも皮肉を言って見せた。叔母さんはテーブルごと手鏡を蹴っ飛ばした。手鏡はしばらく何も言えなくなった。

 またしばらく経って、サイードは叔母さんの家を訪ねた。叔母さんは行商に出ていて不在であったのだが手鏡はテーブルの上に置かれていた。
「よお、みすぼらしい格好しやがって、女になんか興味ねえって顔してるから余計に女が寄り付かねえんだ。ちっとはご機嫌な顔してみろよ」
 サイードは手鏡を掴んで、振り投げる姿勢を取って見せた。
「みすぼらしい鏡風情が。手鏡なんて壁に投げてしまえば途端に終いだ。どうだ。口を閉じる気になったか」
 手鏡は黙っていた。サイードは得意げだった。こんなもので憎たらしいこいつを黙らせたのならなんてことはない。次からは憂さ晴らしに遊んでやろうと思っていたのだ。
「馬鹿だねえ」
 手鏡は呟くように言って聞かせた。
「動けない、ただの手鏡が、こんな事態に慌てふためくとでも思ったのかい。覚悟の上だよ。そうでなくったってお前は不機嫌なことが少しでもあれば物を投げるだろう。哀れなもんだ。お前は精一杯俺を振り投げる姿勢をとらないと俺と話すらできないんだ。可哀相だよ。どうする。女の子と話したいときは女の子を抱えて振り落とすフリをしてみせるか。馬鹿だね。無理に決まってる。お前は女の子を抱えることす」
 サイードは床に手鏡を振り下ろしていた。破断する音が響いて、ばらばらになった手鏡が床に散乱した。サイードは途端に血の気が引くのを感じて、慌てて家に逃げ帰った。家に着いて、一息ついたところでようやく覚える違和感があった。綺麗な赤が地面に足跡を残していた。手鏡の砕けた破片が足の裏に刺さっていたのだ。

「ありゃあ、なかなか痛いもんだったよ」
 鹵獲品のアサルトライフルに寄りかかるようにしてサイードは話していた。私は耳のせいで随分と遠くにその話を聞いていた。
「喋る手鏡なんかあったら、是非ともお話お願いしたいな」
 サイードがこちらを向いた。耳のせいで発した声が調節できず、大きな声になっていたのだろう。
「叔母さんのところを尋ねてくれ。余っていたら売ってくれる」
「どこに住んでいるんだい」
「ここから、西に五〇キロ」
「すぐじゃないか」
「そう」
「だから志願したのか」
「いいや。そもそも町には仕事も無かったからね。志願した方が食えた」
「今日の侵攻次第では危ういな」
「関係ない。できることはいつも同じじゃないか」
 砲撃の音が止んだ。この、静寂の音が何よりも喧しかった。辺りに静けさが立ち込めると耳鳴りに似た喧騒が私を包んだ。体ごと蓋して圧してくるような静寂の喧騒。この喧騒は私を苛立たせたが、どうやらそれは私だけではなかったようで、他の雑兵達も砲撃後の静寂の中で喚き始めることが多かった。
「来るね」
 サイードはアサルトライフルを構えて塹壕の向こう側を覗いていた。
「砲撃をやめたんだから、来るだろうな」
 私は武器を探していた。先ほどの砲撃でどこかへ吹き飛んでしまっていたのだ。
「さっきの話で、嘘ついたところがある」
 サイードは向こう側を見つめたまま言った。
「わかってるよそんなことは」
「行商をしてたのは、母さん」
 静寂に、響くような音が割り込んでくる。走りながら唸る。男たちの声だった。敵が迫っているのだ。
「母ちゃんが手鏡を持って帰って来たのか」
「そうだよ」
「それを投げたってのは」
「嘘じゃない。投げて壊した」
 泥を跳ねながら唸る声。いよいよ間近に来る。
 私はサイードを守らねばならない。決意して食いしばって、近くにあったスコップを取った。

 東方で、群発的な衝突があったらしい。
 ニュースは一日遅れて朝刊を飾った。

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