今もどこかで鳴いている

「犬は生きよ、猫は死ね」
 これは押井守監督の怪作中の怪作「紅い眼鏡」の中に登場する台詞である。千葉繁大先生の渋い声で放たれるこの台詞はカッコ良くもあり酷いものでもある。実際の犬猫をどうこうする場面ではないのでご安心いただきたい。白塗りの男たちが中国拳法でわんさか倒されるだけである。

 私はこの台詞を気に入って、時々なんの気なしに言っていることがあった。
 夜中二時の自分の部屋で、朝ぼらけの散歩の中で、不意に思い出したかのようにぼそっと言ってみていた。とにかく口に出したかったのだ。

 数年後、私の家に猫が来た。猫は野良猫の三兄弟を保護したうちのひとりで、名はお京であった。お京。お京ちゃん。オキョッチャン。名前はそのように変遷していった。オキョッチャンは高い声で素早く言うのがミソである。
 お京はスマートな女の子であった。えぐめの跳躍力で家の全ての場所を早々にクリアし、唐突に私のTシャツに爪を立てて飛び掛かってくるサプライズも魅せた。お陰で夏場の私はしょっちゅう流血沙汰に見舞われた。未だに手首には深い爪痕が残っていて、なにも知らない人には心配されそうなことになっている。
 目の大きな女の子であった。また賢くもあった。まだトイレが苦手な子猫の頃、トイレをする場所に困った彼女は私の布団の上に放尿した。私が就寝中にである。びっくりした。夢で急に雨が降ってきたと思ったら雨が臭かった。悪夢のバリエーション増えたなあ思ったらお京ちゃん放尿わず。「うわああ」って叫んだ俺の顔面に残り尿引っ掛けて退散。十分後コインランドリー。

 お京ちゃんと一緒に過ごすようになってから、私の好きであったはずのあの台詞も言いづらくなった。もちろん本気で猫は死ねなど言っていたわけはないのだが、やはり猫を目の前にして言うことはできない。生きていて欲しいからだ。それに犬と猫に違いなんてなかった。

 私が起きられないでいた時のことだ。沈み始めた陽を窓に映しながら、私は未だ布団を被っていた。そのことに後悔も焦りも生まれなかった。ただ空っぽで太った自分が布団を被っているだけであった。
 普段、お京ちゃんは私の寝ている傍には来ない。元嫁のほうによく懐いたからだ。
 いよいよ陽も落ちて暗くなった中であっても未だ動けないでいた。お京ちゃんはそろりそろりと部屋の中へ入ってきた。私は目をやった。目が合う。お京ちゃんは短く高く鳴いた。しなやかに跳躍すると私の枕の傍に腰を落とし、渦を巻いて目を閉じた。そうして、私はお京ちゃんと一緒に眠った。お京ちゃんの深い絨毯の匂いとわずかな獣臭さが夢に入ってくる。夢の中にもお京ちゃんはいた。目を覚ますとお京ちゃんはそのまま眠っていた。時計は真夜中深くを指していた。私は起き上がることにした。

 今、お京ちゃんはいない。虹の橋とかじゃない。元嫁が連れて行ってしまった。悲しい。色々あると望まぬ別れもあるらしい。
 私は今でも、家の中で歩く時、ゆっくり足を運ぶ。お京ちゃんが巻き付いてくると危ないからだ。そして時々、どこかからかお京ちゃんの鳴き声を聞く。大抵はYouTubeで流しっぱなしにしているナミビア砂漠の水飲み場ライブストリームの中でシマウマが鳴いているのだが。おすすめです。ナミビア砂漠の水飲み場。たまにシマウマとガチョウの喧嘩が見られます。

「猫は生きよ、猫は生きよ」
おわり。

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