指先の恋愛ソング

雨のコメダ珈琲でのこと。ブレンドとアメリカン。

映画の話になった時に、そういえば恋愛映画って観ないなという話になった。
避けているというわけでもないのだけど観たことのある映画を思い出してみても恋愛恋愛してる映画がない。タイタニックは恋愛映画と言われると驚いてしまうけど確かに恋愛映画だ。愛しあっているもの。死ぬけど。たくさん。

恋愛ソングには二種類あるという話もした。世界な恋愛ソングと、指先の恋愛ソング。どういう違いかっていうと指先の恋愛ソングは恋愛を五感越しに歌うって感じ。あなたの匂いが〜とか、目と目が合う瞬間〜とか、そういう日常的に体験できる五感越しの恋愛。そういうものが指先の恋愛ソング。世界な恋愛ソングはもっと抽象的な概念を歌い上げる恋愛ソング。男と女の違いを歌い上げるとか、恋愛する自分の内面にひたすら向き合うとか、そういうもの。どういう曲があるのかって問われると難しいけどジュディオングの「魅せられて」なんかは世界な恋愛ソングじゃないのかな。哲学的というか、純文学的というか。一方で指先の恋愛ソングは物語チックでエンタメ的な匂いがする。そして流行りがちなのは指先の恋愛ソングだ。

雨が窓を叩く音が思い出させるわずかな映像がある。それは映画ラ・ジュテの微笑みだったり、散らかしっぱなしの台所だったりする。それがどう紐づけられてるのかまるでわからない。音が映像を連れてくる。まるでデタラメなつながりのない場面を連れてきて、雨粒の影が落ちるテーブルに重なる。

恋愛をしているときには、自分自身は恋人に投げかけられている。それは恋愛する相手に自身を投げかけているというより、されるがままに投げかけられている。恋愛しているあいだは自立した自分なんてものはなくて、相手の反応や返答が自分の評価を作るようになる。それは脆くて弱い哀れな求愛の姿だ。
相手の反応や返答、表情の変化がまずあって、更にそれをどう解釈して評価するか、これが五感に頼る部分になっていて、指先の恋愛ソングの材料になる。解釈や評価は人それぞれ異なるから、恋愛ソングの内容に共感できた時にはある種仲間を見つけたに近い喜びがあるというわけだ。不安定な恋愛感情での自身の揺れを歌に肯定してもらえる。香水の匂いで恋人を思い出すという歌詞に共感のツボを押される人は割合多いから売れるわけで、町中の巨大なガスタンクを見て恋人を思い出すなんて歌詞であれば共感を得られずに売れることもないだろう。

つらつらと書いておきながら、恋愛ソングを普段聴かないことにも気が付いた。フランスのla fammeが恋愛について歌ってるんじゃないかと思って、歌詞を検索して機械翻訳で英語にしてみたらまるでデタラメな歌詞ばかりだった。タクシーに乗るな!バスに乗れ!みたいなね。電気グルーヴだったりレッドツェッペリンだったり、歌詞がまるでわからないアーティストばかり好きになっている。

音痴な私が、唯一カラオケでも歌えるんじゃないかという曲が寺尾聰のルビーの指輪だ。あれは今考えてみれば、とんでもなく指先の恋愛ソングになっている。指輪なんだもの。指に目がいっている歌。もはや指の恋愛ソング。曇りガラスは風の街。おわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?