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サイコパスにもできる共感の技術

写真はエビタケです。色がダイハツのオレンジカラーみたいでかっこよかったのでとりました。もろくそピンボケしていますけど、スマホではこれが限界じゃ。


ここでは、共感の技術の一つの認知的共感について述べたいとおもいます。サイコパスでもできますよ、と。

ヒューマンケア系の言葉の中で、嫌いな言葉がいくつかあるのですが、サイコパスって言葉も、あんまり好きではありません。どうやって定義したんでしょうか。「サイコパス集まれ~」っていって募集して、研究機関で脳の性状を検査したんですかね。診断基準はなんなんですかね。
(刑務所の受刑者が共感性が低いってことが傍証につかわれたりすることがありますけど、危険な考え方です。)
・・・でも、キャッチ―だし、この記事ではサイコパスって言葉を使いまくります。

いわゆる共感って
ふつう共感は、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の井戸掘りのメタファーみたいな構図で語られているはずです。
相手のことを理解しなくてはならない切迫した事態にあって、相手と自分は絶望的に別の存在なんだという隔たりにぶちあたったとき、主人公は、やおら井戸にもぐりはじめ、深い地の底で心を研ぎ澄ませると、相手と通じる世界に・・という話だったと思います。少なくとも私の中では。

つまり、共感は相手の世界の中にはいって、相手が感じているように感じるっていうことです。そういうのを情動的共感といいます。
いわゆるサイコパスっていわれる人はこの能力が欠如しているようです。あるいは、俺ってサイコパスって自称する人は、この能力が欠如しているから好き勝手にさせてって主張しているわけです。

私も仕事においては目の前で誰かが泣き叫んでいたり、脅されたり、褒められたりしても、あまり感情的には動揺しません。だからといってサイコパスだとはおもっていませんけど。とにかく、そのせいか、上のような、心をよせていくような共感の作業は得意ではないというか・・・別の記事に書きます。

認知的共感
そんなサイコパスでもできるのが認知的共感です。かっこいいから英語もおぼえておきましょう。Cognitive Empathy(コグニティブエンパシー)です。
で、これは、簡単にいえば、相手の立場だったらどうだろうかって慮(おもんぱか)る心の働きのことです。

情動的な共感との弁別について、神経医学領域や心理学では、だいぶ前から論じられているというか、情動的共感と認知的共感はそもそも弁別されて論じられていたように思いますが、一般的にはこれらは共感として、ごっちゃにされているように思います。
認知的共感については、一般書では、ブレイデイみかこの「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」なんかで広く知られるようになったんじゃないかと思われます。「他人の靴を履く」ってところですね。同書では「共感」としかいっていなかったように思うけど、内容は認知的共感のことです(だったと思います。すみません適当で)。

こういうのを知っていた人は、「当たり前のこと書いてるだけじゃん」と思うかもしれませんが、少なくともソーシャルワークについては、教科書でも両者の弁別はされていないし、日本の査読論文に限って言えば、私は見たことがありません。

認知的共感の例
エクストリームな例として、ロシアのウクライナ侵攻を挙げてみます。

プーチンがウクライナに侵攻した際、プーチンの情動がどうだったかなんていうことは、不問にしたとしても、認知的共感は可能です。豊島晋作がいるので可能です。下の動画参照してください。

 歴史的経緯や、地政学的な必然性、脅威の論理からしたらロシアの世論がどうなって、プーチンの立場であればウクライナを侵攻する意向が働いてもおかしくないなっていうのが理解できますね。だからといって、侵攻してもいいかどうかは別問題ですが。
 最近では、そういうものの見方を努めて行おうとする言論が良く見られます。寄り添うとかも本来そういう言葉ですけど、最近やたらよく聞くフレーズですよね。

認知的共感のメリット
そんなわけで、認知的共感の「プーチンだったら」っていうのは、情動的に共感しなくてもできるわけです。情動的にプーチンに共感するのは難しいですよね。
ソーシャルワークの領域では、反社会的行為をしている人と面談をする場面もよくあって、情動的な共感は無理じゃ~っていうケースがあります。でも、認知的共感は相手の理解っていうところが目的なので、「ああ、そこでスニッカーズがどうしても食べたくなって、我慢できなかったんですね」とわかればよいわけで、感情的な疲弊はおきません。そのかわりに、治療的な効果はあまりないような気がしますけど。
ケアとしての面接というか、問題解決のための技術という側面が大きいでしょうね。また、クレーム対応の時には、クレーマーの主たる感情は「おれのこと理解しろ」っていうのがかなりの割合を占めているので、情動的共感ではなく、認知的共感の技術を使います。

こういう点から、この技術は、感情的な共感性が低い人でもできるっていうことがわかると思います。

認知的共感のやりかた
認知的共感を行う上では、特別な技術は必要ないように思います。
①相手の話をよく聞く。
②この人どんなこと思っているのかなというマインドセット(ミラーニューロンをはたらかせはじめる)
③情報を解釈して、こういうことですか?って相手に聞きながらすすめる。

ただし、技術としては簡単なのですが、認知的共感には、教養・知識が必要なんです。この部分がこの記事のオリジナリティです。
先のロシアの例でも、豊島晋作に知識を教えてもらって、「たしかにプーチンの立場ならそう動いてもおかしくはないな。」ってわかるわけですよね。
ソーシャルワークの現場の例で考えると
 「大腿骨頚部骨折で入院中の患者の家屋評価。家に入ると、転倒した箇所に手すりがあり、このたび、取り付けたということであった。」
 という簡単な記述ですが、家族の思いが読み取れますか?
領域で仕事をしていない方にはわかりずらいはずです。

手すりを設置した家族の行動の背景にある思いや考えについては、家屋評価の前に、介護保険の適用を待たずに設置したということがとっかかりになるでしょう。つまり、この時点では介護保険では設置しようがない、という制度の知識と、普通の市民は手すりが介護保険で取り付けられることくらい知ってる、っていう、人の理解に関する側面の知識が求められるわけです。
こういう知識がないソーシャルワーカーだと、「えー、もうつけちゃったんですかー?だって今日見てからっていったじゃないですかぁ~」みたいな寝ぼけたコメントが漏れ出してきてしまうと。

まとめ 教養とは人の心がわかる心をいう。
こういうのって、ヒューマンケアだけに限らず、なんでもそうで、たとえば茶器とかにしても、特有の色を出すための苦労や心遣いについての教養がなければ、「茶碗だ」としか思わず、そこに価値を見出すことはできないはずです。
養老孟司先生は、教養とは人の心がわかる心をいう、っていう言葉をよく話されていて、誠にそうだと思うわけなんですが、これは認知的共感についても当てはまるって話でした。













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