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共感的関係が行きつく先は裏切りしかない。【情動的共感】

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ぶつぶつ独り言をいいながら散歩をしていたら、畑に咲いていたのでとりました。たぶん、カブの花だと思います。年間で一番寒い2月に、カブはアブラナ科の中でもいち早く満開に咲くので元気がもらえます。

以前の記事で、認知的共感を述べました。認知的共感は相手のおかれている状況を理解して、相手の立場にたって、なんでそういう風に感じているのかとか、そういうことをしたのかっていうのを理解するってことです。
一方、情動的共感は、相手が感じているように感じることです。動画とかで、いたーい動画とかみると、こっちまで「いてっ」ってなるときありますよね。人間にはそういう脳の働きがあるわけです。

ここでは、情動的な共感について述べ、行き過ぎた共感的関係における危険性についても述べたいと思います。

情動的共感と同情の違いを話そうか
情動的共感(emotional empathy)と同情(sympathy)は似ているけど、ちゃいます。両者の違いを区切るために、アメリカの著名なソーシャルワーカーのブレネーブラウンの動画をみましょう。
この人は、ベストセラー作家でもあって、クリエイティブな若いソーシャルワーカーは得るものが多いかもしれません。TEDとかに動画がたくさんありますよ。
ここでは、単にEmpathyとしかいってないけど、内容的には情動的共感のことをいってます。

アメリカ的なわかりやすさでしたね。
同情は、自分の考えを他人に当てこんでいるだけだけど、情動的共感は、相手と同じところに降りて行って、感じていることに寄り添っていっているわけです。
「ぼくも、おなじことがあったからわかるよ」みたいな言い方は、支援者が使う言葉としては、隙だらけですけどね。

共感による一体感
共感と同情について、する側の安全性からいったら、同情のほうが圧倒的に安全です。動画からもわかりますよね。共感はどん底まで降りていってますから。

そんで、相手が感じるように感じていく情動的共感では、相手の言葉に、「そうなんですね」じゃなくて、「そうだね」で応答していくわけです。あなたが思ってることは、わたしも思ってるってことですから。ですから、共感する関係性は、一体化の方向へ進んでいくわけです。
そういう関係性は、友情にしても愛情にしても同じのはずです。

人間はあくまで「個」として、自分を他と区別した存在であることを認めたいと望む半面、他の存在との合一・融合を求めたいという欲求ももっている。

河合隼雄『中年の危機』

一般的には、女性のほうが男性よりかも共感力は高いような気がします。学校での新入生でも女性の学生は、なんとなく寄り合いはじめて、「わかるー」を連発しだします。底の浅い共感ではありますが、「おんなじように感じる関係だよ、あたしら。」と表明しているわけです。

いっぽう、男の場合には、さいしょの挨拶でこっちが気を遣って、「さむいですねー」とか言っても、「いや、べつに。車で来ましたから」とかクソみたいな返答をしてくる奴が多いように思います。
そういう意味では、現代みたいな平和な世の中では、女性のほうが社会性動物として優秀なのかもしれませんね。

過剰な共感的関係の危険性
でも、共感的な関係がいいのかっていえば、必ずしもそうとは限らなくて、そこそこまででとどまれば、いいんでしょうけど、過度に共感を強いる関係にまで至ると、共感しばりがきつくなってくるわけです。
友人関係や恋愛関係の場合には、その関係性が強まっていくと、ささいな行動でも、相手の意にそわなければ「裏切り」ってことになることがあります。だって、あなたは私がおもっているのとおんなじようにおもってくれるんだよね、っていう定義から逸脱したわけですから。
河合隼雄は、「友情の行きつく先は裏切りしかない」といっています。
関係性が高まって、一体感をどんどん求めていっても、しょせんは別人だから、いつかは、別々でしかないことにフォーカスが変わってくるわけですね。これは友情だけではないでしょう。
「共感的関係が行きつく先は裏切りしかない。」っていう風にも言えるかもしれません。

まとめ
よくあるもつれた関係には、いきすぎた情動的共感があったのかもねってことです。情動的共感はダメなんだっていう極論・曲解に至ってしまってはいけませんけどね。


大人の関係性では、「私は、そうは思いませんね」っていう苦味を、10%くらいはきかせておくのも、長持ちする人間関係のために必要かもしれませんね。君子の交わりは淡き水の如し。




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