過去の名ボカロ曲をレビュー part1(+ボカロシーンについて雑感)

(前置きがだらだらと長いので飛ばしていただいて結構です)

少し前に上記のようなツイートをしましたが、よくよく考えるとこれも自分の本来的な思想とは若干異なる主張だったと思います。

突然話は変わりますが、以前ツイッターで流れてきた話題だったと思います、「本は読まれている状態の方が異常である」というような考え方がとても好きです。
そもそも世の中には数限りなく本が存在し、日本の国立国会図書館に存在する出版物に限ってもその蔵書数は約4000万点、つまり1日100冊ペースで読んでも読破には1000年以上かかります。国内だけでもこれほどとなり、ましてや世界にも目を向ければさらに途方も無い物量がかさ増しされることは明々白々です。
そう考えると、ある一冊の本が読まれるなんてことは滅多に無く、「本は読まれている状態の方が異常」であることがなんとなく実感できます。

では何のために本は存在しているのかという話です。特に、誰かに読まれるために書かれた出版物のことを考えればなおさらです。
その答えとして最も妥当なのは、記録として必要になる時が来るまで存在していることが重要である、という考え方だと思います。何かを調べる時、何かを知りたい時、存在する本はアクセスに応じて記録をアウトプットすることができる。
必要になる時が百年後なのか千年後なのか分かりませんし、もしかすると明日なのかもしれませんが、その時のために存在し続けることができれば、必ず本は読まれることになります。その希望を忘れないからこそ本は存在し続けることができます。

またこれはネット上に残される楽曲レビューにも同じことが言えると思います。
例えば検索サイトで関連ワードを用いて検索して、何万件かがヒットしたとします。その数は(いくらかの重複や誤検出はあるでしょうが)誰かに読まれるために待っているサイトの数を表しますし、維持し続けようという営みさえあれば存在し続けます。
こうした多くの人々の営みの中で、維持、蓄積、変化していくもの、それすなわち文化です。

楽曲にも同様のことが言えます。ボカロで言えばニコニコ動画の「VOCALOID」タグでヒットする約53万件(2019年12月現在)は聴かれるために待っている動画の数であり、文化そのものです。一つ一つが無ければ全てを構成することはできません。
私は多くの人々が関わる文化が好きで、それを少しだけでも過去から未来へと繋いでいきたいと思っています。そのため作る側としての自分は、統計的な数字を構成する一つとなることを承知の上で、投稿した楽曲は自ら削除しないようにしています。

しかしここまで述べたことは綺麗事のようにも見えますが、一方では無味乾燥で客観的な事実でしかありません。
果たして音楽を作る人たちは、百年後なのか千年後なのかも定かでない希望とやらに何らかを見出しているかというと、部分的にはそうだとは言えてもそれが全てでは決してないはずです。
何万と存在する楽曲の中の一つとして存在することで、文化の一部を構成する意識があるかというと、これも部分的にはそうだとは言えてもそれが全てではない。むしろ自分こそが真に特別なんだという確信を何処かで抱きながら、凡百の楽曲などとは違う、決して混じらない何かを渇望しているはずです。

もし自身の楽曲が、あくまで自らの主観として、無数の楽曲の中に不用意に混じってしまったように感じ、その価値を見出せなくなった(恥を感じることまであるかもしれません)のであれば、作者は自ら楽曲を削除することになるでしょう。あるいは文化などという陳腐な概念に取り込まれたくなければ同様に消すことになるでしょう。

こうした現実を見るにあたって常に頭に入れておかなければならないのは、文化と作品との適切な距離感を意識することです。
様々な作品や行為から帰納したものが文化であり、その文化が新たな作品を生む土壌となる好循環は是非とも歓迎されるべきです。しかし私たちが愛しているのは作品を生み出すシステムそのものではないはずです(もちろんどこまでが音楽で、どこからが文化なのかは大いに議論の余地があります。ありとあらゆるものが音楽であり文化であると主張することは強弁でなくても可能です。)。

これはボカロシーンにおける構造的な問題の一つです。ボカロ文化が花開いたことによってボカロ専門のリスナーが現れ、ボカロを用いた曲というだけである程度の再生数を得るようになりました。
しかしこれはある意味で作品の価値を無視することに直結し得る事象です。”ボカロだから聴く”という姿勢は、対象となる作品の個性や各要素の重要度の重み付けを事前に判断するところから始まっています。これは作品に対する誠実さの欠如に繋がりかねません。

だからこそ、このように自らの中で文化が優先したことに気付いた瞬間に、作品との距離感を今一度考えなければならないのです(文化を優先させてはならないという意味ではありません)。もちろん他人事のようにこの文章を書いている私も例外ではありません。

実はこのことについては機材欲しいPが、表現としては非常に刺々しかったものの、重要な問いを比較的早い時期に投げかけています(触れられたくなかったらすみません)。

当時のことはニコニコ大百科の機材欲しいPの掲示板を読めばある程度その空気が伝わると思います。かなり辛辣な発言だったにも関わらず内容を受け止めた反応が多く残っていることを察するに、単なる悪口ではなく本質的な問題を突いた発言だったと感付いた人が多くいたのではないかと思います。
(ちなみにこれはボカロシーン特有の問題ではありません。代表的な例はプログレや渋谷系あたりでしょう。)

もちろん、ボカロブームが今まで見向きもされなかったクリエイターに光を当てることとなった功績は計り知れないものです。
音楽としての価値はそれと独立して存在している、だからボカロというきっかけが機会を作ることはいいことじゃないか、だったらボカロブームも無く全ての曲がそのまま聴かれもしない状況のままで良かったのか・・・、そうやって総体として現象を肯定し、個を圧殺することは簡単です。しかし、ボカロブームの”功”が独立して存在しているのと同様、”罪”も独立して存在していることから目を逸らしてはいけません。


ボカロブーム以降、M3は歌ものがボカロばかりになってしまった・・・と嘆かれたことがまだ記憶に残っている人が多くいると思います。多くの人が、クリエイターの誇りとは別次元の問題としてボカロに駆り立てられたこと、もしボカロが無ければまた違った音楽が聴ける世界線があったのではないかということに、たまに思い馳せます。

もはやボカロ文化は引き下がれないところまで来ました。多くの人々の価値観に住み着き、人生を滅茶苦茶にしくさって、ボカロ文化があることが当然の世界線でなお性懲りも無く生き延ばし続けています。

その中でボカロ文化に加担してきた人間として、上手く言えませんが、願わくばこの文化が実体のあるものとして存在し続けて欲しいと思います。「実体」というのは音楽を作り聴く、そしてそれがモチベーションになりまた作るというサイクルがやはり根本的なものでしょうか。

ボカロ界隈はこうしたサイクルを回すことにとても意識的だと思います。
ツイッターのTLを眺めていると新曲を聴けていないことを嘆いているツイートがよく流れてきます。
これは凄いことですよ。何処の音楽クラスタでも新曲を聴けていないことを嘆く人なんて少数派もいいとこ。ましてや頻繁にそのようなツイートが流れてくるなんてありえない。音楽好きなんて大抵シーンへの当事者意識も無い、自分のキャパを超えようともしないくせに自尊心だけはご立派なクソ野郎ばっかりですよ(自己紹介)。
自分のキャパを超えてまで音楽を聴こうとする姿勢はボカロ界隈は随一です。断言します。とはいえ姿勢だけではどうにもならないことは分かっていると思いますので、めっちゃ頑張って欲しいと思うわけですが・・・。

話を戻して、その根本的に作品を作り楽しもうという行動は、楽曲の数、再生数や、ニコニコではコメント数やマイリスト数、あるいは各検索エンジンでは検索結果などのように指標へと換算されていきます。それらが、冒頭でも書いたように、文化が残るための足がかりとなっていきます。
そして指標はそれ単体では実体足りえません。人々の営みの中で維持、蓄積、変化していく文化はもしかしたら将来、ゴミのように価値が暴落しているかもしれません。それは極端ですが同じ価値観で物を見ることはほぼできなくなっているでしょう。

だからこそ、レビューに限らずとも作品について語ることが必要になります。知識がどうとかだけでなく、何が起きて何を動かしたのかという素朴な記述はとても貴重です。
例えば90年代後半から00年代前半の音楽シーンについて調べ物をしている時に、たまにプライベートな日記のようなサイトが見つかります。その中の記述で当時どのようにその音楽が聴かれていたか、どんな音楽と比較されていたかを知ることができます。今となっては、それ以外の方法では当時の人に直接聞くくらいでしか知ることができない、ありがたい記述です。

これから何が起きるかなんてさっぱり予想できないのでほとんど信じるしかありませんが、少なくとも今の自分にとって時代を隔てた音楽の記述はどんな形であれ欲しいものです。
一方で予想できないということはKaska Guitar氏のように過去の音源が海外で発掘され、再評価される流れが起きるかもしれない。その時に誰が好んで聴いていたかとかが分かればどんなに助かることか。
特にボカロシーンでは作品の数に対して語る数が圧倒的に足りていないと感じます。増えてけ~と思います(疲れた、適当)。

以上を以って冒頭のツイートを修正するならば「レビューは伝わるかもしれない人に伝えるためのもの」といったところでしょうか。


というわけで、過去の好きなボカロ曲をレビューする記事を書いていきたいと思います。できれば隔月くらいで書いていけたらいいなあというのが理想です。
形式としてはお世話になっております「ボーカロイド音楽の世界2017」「ボーカロイド音楽の世界2018」を踏襲していきたいと思います。では第一回の始まりです。



【初音ミク】 楽団ひとり 【オリジナル曲】 作:mal-さん(ヘドバンP)
ラフに歪んだクランチサウンドのギターに、重苦しくよれよれのリズムはUSオルタナ/グランジ風だが、哀愁のある歌メロからはむしろそれらオルタナから影響を受けた90年代後半からの邦ロックの系譜の方がより近いと感じる。
ダイアトニックから大胆に、しかし直感的に外れるイレギュラーなコードワークはさながらパンキッシュ。ギターの楽器としての構造的に、特別難しくも複雑でもないフレーズからは計算の跡があまり感じられないため、非常に感情的な揺らぎが演出されている。
一方でアレンジはまさに計算とアイデアの賜物。歌詞に合わせて各楽器が徐々に重なり盛り上がっていく曲調に対比することで、ふと衝動的に孤独感を覚える仕組みになっている。
群像劇的に個々の物語が語られつつ、詞の主人公の実在感が高まっていく。詞の主人公とはもちろん作者のヘドバンPのことでもあり、同じく孤独に音楽を作る人たちのこと。ラストのフレーズは確かにそこに存在していることに対する意地と誇りの表れ。
バンドサウンドの形式を借りながら、言ってしまえば声までもが借り物で、現代における孤独と自身の存在の確かさをここまで見事に描き切ったロックバラードは他に知らない。


【IA&GUMI】花束を贈ろう【オリジナルPV】 作:やっぱロドリゲスさん
軽快なドラムと小気味よく全体のリズムを作るピアノを中心に構成されたニューミュージック的フォーク風ポップス。
脇を固めるギターはカントリー的なアメリカンルーツロックなレトロさがありながらも瑞々しく爽やか、そしてベースはディスコ調のダンサブルなフレーズで軽快なリズムを支える。
そして特に特徴的なのはこれらバッキングは全て生演奏であること。音処理もダイナミクスを均しすぎないようにそれぞれのニュアンスを生かしたものになっており、これは商業的に処理された音源に慣れている人にとってはある意味とっつき難いが、ハンドメイドの良さはむしろこうした形でないと残らないだろう。
曲自体はカノン進行をベースとしたシンプルな作り。高低を行ったり来たりし徐々に最高音へ辿りつくサビメロはそれだけでドラマチック。
夢を見ているのは君、しかし目を覚ますのは語り手の方。この素敵な音楽の中で広がる風景が、聴き手に心地の良い夢を見させてくれる。
ところでIAの歌声はかっこいいロックでも神秘的なシンフォニーでもなく、こういう素朴なポップスこそが真骨頂だと思っているのですがどうでしょうか?


【初音ミクオリジナル曲】若きヨーゼフの空想 作:black、Dさん
荘厳かつ流麗なメロディーをクラシカルな編曲の中で際立たせたオペラ風バラード。オケはクレジットを参照すると(そしてその音から判断するにしても)、ローランドscシリーズの音源によって構成されていることが分かる。
特に有名なハチプロなどは2000年前後のDTM界隈で圧倒的な支持を得たMIDI音源であり、生に近い音を得られるとして様々な場面でその音を聴くことができた。とはいってもそれは10年以上前の話であり、より優れた音源が出回っている今となっては既にノスタルジーに片足を突っ込んでいる音色だと言ってもおかしくない古い音源となっている。
そんなscシリーズを使用しているとなれば、ではもっと上等な音源を使えばいいのでは?と思うのが自然だが、しかしblack、D氏の楽曲においてはその限りでは無くなる。極度に整然とした抑揚を持つボーカロイドの歌声とハチプロの穏やかかつ単調な響きが奇跡的なバランスを保っているように聴こえる。まさに「革新技術を以てしても訪れ得ない」。
これほどまで圧倒的に歪で偏執的な音空間を作るに至るその美意識に慄然とせざるを得ない、21世紀に凛と佇む名曲にして奇曲。


次回:過去の名ボカロ曲をレビュー part2の記事

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