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“ツナガル”ということ

すんごい今更になってしまったけど、1月に関わった、三十路の祭典「三十路祭り1986-1987」について書こうと思う。

まず、三十路祭りを全く知らない人はこちらを読んでみてください。

                      三十路祭り1986-1987


一言で言うと、


     めちゃめちゃに刺激を受けた。


僕は最初、去年たまたま先輩の話で聞いた、第一回目の三十路祭りのことが気になって調べ、「面白そうじゃん!参加しよー。」みたいな感じのノリでチケット購入をした。

だけど、なんとなく、ただ参加するってのが嫌だった。

それは僕がただこの祭りに参加して、この規模のイベントを成功させようとしている同い年を見るのが嫌だったんだと思う。

2015年に地元に帰り1年。

何かプロジェクトを企画しても都心のように人が集まらない。

とにかく金がない。

一緒に楽しく出来る仲間ができない。

という歯がゆい思いを勝手にしてきた。あくまで勝手にね。

12月。

同い年が、同い年のためにやるイベントなんてどんな出会いが待ってるか分からないじゃないか!とふと思いたって実行委員会のメールに「福島在住ですが何か手伝えることあればやらせて下さい。」って送った。

そっからの日々、たった一ヶ月だったけど、僕はすごく充実していたと思う。

企画をしていた実行委員のみんなはとにかく一生懸命で、アツくて、楽しい同い年。

まずただでさえ時間がないのに、“福島”という距離的・時間的に不利な条件にいる僕を受け入れてくれたこと。

みんな毎日のように顔を合わせて打ち合わせだなんだってやってる中、福島にいる僕は週末に打ち合わせにいくのが精一杯。

だけどそれでもステージのディレクションを任せてくれたこと。

ものすごく嬉しかった。

単純に任せてもらえた事が嬉しかったんじゃない。

僕は、2015年に地元に帰ったのは決して東京が嫌になったワケじゃなく、今の自分の思考、スキルなら“帰れる”と思ったから。

だから僕は、地方と東京の距離の差は関係ないと思っていた。

だけど上で述べたように、やっぱりなんか難しいなとか感じてた時、新しいコミュニティに加わわり、何かが出来るのが嬉しかった。

そんぐらい僕は、刺激を欲していた。

同い年ってだけで、同い年で同い年を盛り上げようぜって気持ちだけで、最高に楽しいイベントが出来上がった。

集まったお客さんも同い年。

最強の乾杯だった。

同い年がこんなに集まって、みんなで一斉に乾杯する。

あの瞬間は、誰がなんと言おうが世界で一番PEACEな場所だった。

ぼくは残念ながらステージ裏で仕事があったからその乾杯には混ざれなかったが、その瞬間を外から見る事が出来たのは貴重な経験だったろう。

鳥肌ががっつりたった。

そしてなぜかそのグルーブ感に泣きそうにもなった。

僕は関わってたった1ヶ月だったけど、ずっと関わってたみんなの大変さ、想いはしっかり伝わっていたから。

毎日100通以上やりとりされるLINEトークも、何十個もあったLINEグループも、打ち合わせで飲んだコーヒーの数もタバコの煙も睡眠不足の日々も。

全部があの瞬間のあの笑顔の為にあった。

僕はイベントの善し悪しは入ったお客さんの数、売り上げはもちろんだけど、それ以上に、

どれだけの人に影響を与えられたか。

が重要だと思っている。

つまりは、そんだけの想いが詰まってるかということ。

いいイベントはその想いが伝染して、グルーブを生み出す。

同い年で神輿という文化を世界に伝える男がいるなんて知らなかったよ。

同い年で酒蔵ついで未来のことしっかり考えてるやつとか、自分の生き方にちゃんと答えもってるやつがこんなにいるとは思わなかったよ。

こんなにも沢山の同い年を集めることのできる同い年がいるなんて知らなかったよ。

その他にも、このイベントを通して、自分の世界が広がった人は沢山いるんじゃないかって思う。

少なくとも僕は、世界が広がり、大切にしたい繫がりができた。

負けたくないとも思った。一緒に何かやりたいとも思った。

いろんな想いが生まれた。


   ツナガルということは、ツナグということ。

三十路祭り実行委員会は、この文化を下の代に受け継いでいく。

そうやって想いががっつり込められた最高の同い年が毎年集まって行ったら、ほんとにすごい国になっちゃうんじゃないのJAPAN。

実は1月3日に、僕の地元でも30歳を集めてみた。

わずか40人ぐらいの、小さな同窓会だったけど、普段会わなくなったみんなが集まって、楽しく酒飲んで、思い出話して騒いで、ちょっとだけだけど、自分たちの今までの事やこれからの地元のことを話し合った。

僕たちの地元は、人口減少でこのまま行ったら普通に何十年後かに無くなる。

震災は大きなファクターであったけど、それは関係なく人口減少はずっと前から始まっていた。

僕は自分の生まれ育った町が、自分の子どもや孫やその先まで、ずっとあって欲しいと願っている。

人数は少ないけど、そういう話が出来たのも、30歳だからかなと思う。

大事なのは、その気持ちをツナグこと。

仲間へ、後輩へ、子どもたちへ。

今すぐは出来なくても、想いがあればかならずできる。

三十路祭り1986-1987は、改めてそういうことを考えさせてくれた最高の場所だった。

最後に、劇団やってた時からの相棒、スケにはまた今回も沢山助けてもらった。

毎日20時間ぐらい一緒にいたやつ。

飽きるぐらい顔を合わせてたけど、今回久しぶりに一緒にイベントに関われて最高に楽しかった。

想いはツナガル。

三十路祭りの時、参加者の皆さんに富士フィルムの写ルンですでとってもらった写真が、展示されてます。

ステキな空間。

富士フィルム×三十路祭り写真展〜3/8(水)

                        ワダリョウイチ


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