[掌編小説]きょうもいきたくない


 朝とか昼とか夜とかそういうものの区別がなくなった。徐々になくなっていったのかもしれないし、急に消失したのかもう覚えていない。


 外が明るくて時計の短針が「6」を指しているから朝の六時なのだろう。

 起きたい時間よりも二時間も早く起きてしまった。こんなに早く起きてもやることなんてない。やるべきことはたくさんあるはずなのに何もしたくない。ベッドの中でスマフォを見てると時間がザクザク落ちていく気がする。なんの生産性もない。何も生まれない。リアルが下敷きにあるはずなのに血潮も息も感じない。飾られている誰かの日常はつくりものでどこにも存在していない気がする。他人の承認欲求を満たすためにハートを連打。実に軽薄な好意。


 二時間そうやって時間を潰して仕事に行く準備をする。鞄の中をひっくり返してコンビニで買って食べたおにぎりとか、手を拭いた干からびたウエットティッシュとか、鼻かんだティッシュとかそういうのが財布とかSuicaよりも体積を占めて重くなっている。


どうもうまく生きられない。干からびてしまって歯車がうまく廻らない感じ。


 鞄に入っていたゴミの中に「チェキ券」と書かれた一枚の紙があって、見なかったフリをして丸めて捨てた。
ついこの間までは生きてる喜びがあったはずだ。
でも、いま、生きるよろこびなんて、一体どこにあるんだろう。

 仕方なく電車に乗り、仕方なく職場に向かう。通勤の電車の中は生気や感情という概念が存在しないみたいだ。息継ぎや咳払いやくしゃみ、ときどきいびきが聞こえてくる。それぞれ、帰る家があって、職場があって趣味や好きな食べ物があって、笑ったり泣いたりするんだろうと思うとなんだか不思議だ。同じ人間のはずなのに彼らとわたしが同じとは思えない。このひとたちも怒ったりひとの悪口を書いたり、SNSで普段言わないようなことを書いたりするのだろうか。

 そんなことを思っているうちに車両がほぼ一掃され、また大量に入ってくる。


 みんなどこに向かっているんだろう。


 職場ではかろうじて生きていられる。きょうもちゃんと話せた。きょうもちゃんと笑えた。ここで「ふつう」の型をつくって、自分を流し込む。でも、どんな「ありがとう」もいまのわたしには響かない。「助かる」「頼りになる」「気が利く」こんなことば、与えられてもなんとも思わない。前だったらもっとがんばろうとかそういう向上心が芽生えたはずなのに。


 飢えたこころが求めるものの正体を知っている。
 定時に職場を出て感情と離れ離れになっている重たい体を引きずり、渋谷に向かった。電車に乗る十二分の間が、いつもの四倍くらいに思える。


 電車を降りて改札を潜ってハチ公口の混雑は忘れていた苛立ちという感情を思い出させてくれる。一度に何百人も通るスクランブル交差点の中央で、外国人がポーズを撮って写真を撮らせている。こんなことの何が楽しいんだろう。嫌味ではなく単純に疑問だった。わたしもあんな風に笑えたらどれだけいいのだろう。


 新しいコスメも、路上ミュージシャンも、行列ができるチーズタルトも、何もわたしのこころをゆすらない。でもきょうもしかするとこころを取り戻すことができるかもしれない。そんなことを思いながらライヴハウスに向かった。


 バスケットボールストリートというあんまりな名称の通りを抜けて、東急ハンズの前を通過して信号を渡った。ライヴハウスの密集しているビルのエレベータに乗って三階で降りた。下の階からスッカスカのドラムの音が聞こえた。


 名前と目当てを言ってフロアに入ると人の入りはまばらで、ところどころに隙間があった。きょうは何組出るか知らない。ドリンク代を払ったものの何も飲みたくない。


 デジタルサウンドのオケも、アイドルたちの歌もダンスも頭に入ってこなかった。どのアイドルも同じに見えた。かろうじて色で区別ができた。


 終演後、グループ名が一番耳に残ったアイドルの物販列に並び、適当に名前が耳の入ったひとのチェキ券を買う。そのグループの列に並び、スタッフの指示に従ってチェキを撮る。


「はじめまして」とわたしが言うと「はじめまして」と笑顔で言われた。「きょうの服可愛いね」と口から出まかせのようなことを言われ「どうやって撮る?」と訊かれたので「ハグで」と答えた。周りでチェキを撮っているアイドルとファンは当たり前のように抱き合って写真を撮っている。「いいよ」と彼はわたしを思いきり抱き締めた。――やっぱりだめだ。きょうも、ぬくもりを感じることができなかった。
「ありがとうございました」
 チェキを撮り終わった後冷静にそう言った。
「また来てね。待ってるから」と笑われたけれど、たぶん笑い返せやしなかった。わたしのことなんて一瞬も思い出さないだろう。
 すぐにライヴハウスを後にして駅に向かう。

 この前までは確実に感じられたのに。ぬくもりが欲しくて地下アイドルに千円払って抱きしめてもらっても感情は帰ってこない。


 わたしは半年前、SNSで同じアイドルを推している人間に執拗に悪口を書かれ、そのアイドルから離れてしまった。その頃から自分の中で感情も、時間の感覚も、気力も、すべてどこかに行ってしまった。自分の行いを逐一見られ、それをSNSに書かれていることはただただ恐怖だった。そして妄想でおかしな噂を流布された。きっと、SNSに書かれていることが強すぎて、それを見たひとはわたしがどんなことを言ってもきっと誰も信じないという諦念でこころは爆発してしまった。


 また同じことを繰り返すことになってもいいのかと自問するけれど、身近にいる誰のことも別に好きになれないし、好きになれる気がしないから、わざわざお金を払ってこころを動かせそうな何かを探している。


 いますぐに深いものが手に入らないなら、インスタントでもいいから愛のようなものに触れてみたかった。


 駅前のTSUTAYAに入り、一番上の階で好きな作家の新作を手に取っても、文字が滑って頭の中に入ってこなかった。


 そのまま電車に乗りたくなくて渋谷の街を歩いた。サラリーマンや、OLや、派手な格好をした若者や、地味な格好の中年やいろんなひととすれ違う。何も考えずに歩いていると小さいトンネルのようなところを過ぎ、公園があった。その公園の死角になっている壁に背の低い若者がスプレーで絵を描いているようだった。初めて壁に落書きをしているところを見た。わたしの存在にきっと気づいているはずなのに彼はやめようとしなかった。あの情熱は一体何なんだろう。


 もう少し近づいて絵を見てみると森を背景に骸骨が指でハートをつくっている絵だった。まったく意味がわからなかった。なぜ彼はこんな無意味なこと、無益なこと、違法なことになぜこんなにも熱心になれるのだろう。誰に認められたいのだろうか、はたまた、認められすぎることに慣れてしまったのか。もしかすると最初から彼のなかに「誰か」なんて存在してなかったのかもしれない。その熱量を別のことに生かせばいいのになんて思っているうちに、心臓が激しく騒いで気がつくと、堰き止められていたものが溢れ出すように泣いてしまい、しばらくそこから動けなくなった。


 たとえば、こころはこんなふうに、少しだけ動くなにかがあるなら、あしたも少しだけ生きてみたい。でも、きっとあしたの朝になれば、きょうの朝みたいにどこにも行きたくないと思うのだろう。それでも。やっぱりかすかでもいいから愛のようなものに触れてみたい。

 こころが、目が、ちゃんとものごとを受け取れるようになるまでもうすこし生きてみたい。
 気持ちが落ち着いて涙を拭って前を見ると絵を描く青年は居なくなっていた。この気持ちが消えませんようにと祈りながら、電車に乗って家に帰った。

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