[掌編小説]螺旋

 わたしの「日常」はドアの中のものが本当なのか、ドアの外が本当なのか。朝、眠っている明子の頬にキスをするときと、家のドアに鍵をかけるときと、同じわたしのはずなのにまったく違う人物のように思えた。どちらも、肉体は同じわたしだ。だからいずれも「本当の自分」であるはず。

 アパートから駅までは、住宅街をひたすらまっすぐ抜けていくだけだった。朝六時、辺りを歩くひとはいない。偶に老人が散歩をしているのを見かける。徘徊なのかもしれない。この道を歩いているときがいちばん、自分というものについて考えている。林立する住宅に棲んでいる何人かの集団は、きっと男と女が混ざっているけれど、わたしは明子とふたりぼっちだ。この住宅の中にも女だけ、男だけで住んでいるひとなどいるのだろうか。きっと知っても安心できない。それはそのひとたちの生き方で、わたしはわたしの人生を生きるしかないから。毎日毎日飽きもせず、そんなことを考えて退屈な道を歩いていた。

 職場のケーキ屋はひとつ隣の駅にある。駅の目の前にある新しい店で、わたしの専門学校の先輩が経営している。「パティシエ」といえばきこえは言いかもしれないが、わたしは自分のことを「ケーキつくってるひと」としか思えていなかった。

 わたしはケーキが大好きだけれど、ケーキはなくても生きていける。価格は高いし、食べ物の中では身分が高そうに見えるけれど実際ケーキよりもカロリーメイトとかのほうがえらいんじゃないかと思いながらいつもケーキをつくっていた。

 売れ残ったら捨てられてしまうケーキを、謎の義務感に後押しされながらつくり続けていた。勿体ないという感覚は薄れていって、このケーキがどういう運命を辿るかなんて興味がないし、どうなってももはや何も感じない。出来上がったものをすぐさま目の前で投げ捨てられたら怒るかもしれないけれど、きょう誰かを笑顔にしようが、廃棄時間が来て捨てられようが関心がない。でも、わたしはきっと「なぜパティシエを志そうと思ったのですか」と誰かに訊かれたら笑顔をつくって「ケーキでひとを幸せにしたいと思ったから」とか抜かす。でも、それは嘘じゃない。いつも自分の冷たい部分と変にぬるい部分があってずっと気持ち悪い。

 仕事を終えて家に帰る。きょうも、職場のひととは笑顔で話して、辛いことなんて何もなかった。わたしが、勝手に自分自身のことを辛いと決めつけているだけで、ひとはそれぞれ誰にも言えない、言ったら何かが変わってしまうことがあることはなんとなくわかっていた。

 自宅の鍵を開けてドアを開けた。扉の外にも中にも境界などない。わたしはずっとわたしだ。そう思うのに、強く思っているのに、開けっ放しのドアから仕事の絵を描いている明子の姿を確認すると自分の中で何かが崩れおちる。毎日これの繰り返し。

 リビングの中央に配置しているソファに飛び込んだ。「おかえり」も「ただいま」もない。気分がいいときは黙って後ろから抱き締めていたけれど、最近はそんなことしていなかった。

 また、「わたし」のことを考えてしまう。目を閉じて現実逃避しようとするけれど、眠れたためしがない。

「帰ってたの?」

 瞼の中の暗闇の中で、明子の声が落ちてくる。無視していると明子がわたしの体の上に乗っかってきた。

 いとしい、という感情はもはやどこかに溶けてしまっていて、明子がこうやって身を寄せてくることを当たり前のこととしか思えなかった。

 息が詰まる。幸福で。

 息が詰まる。このことを誰かに知られても言い訳なんて用意できていないから。

「いいにおい」

 いつからだろう。「好き」とことばで言えなくなった。いいにおいなのはきっとケーキの材料のせいで、わたし自身のにおいじゃない。明子はいつも家のにおいがした。だから、明子のことを勝手にどこにも行かないと決めつけていた。

 キスをしようとして、やめた。そしたら、キスされた。明子の丸い鼻だとか、目の下のシミだとか。出会った頃から変わらないものと、変わっていくものに安心していた。明子もわたしの体にすべてを預けて安心しきっているのがわかる。いまはそんな気にならないからわたしからはそれ以上を求めない。呆然と天井を眺めていると、明子がわたしの体を好きな風にする。その間ずっと目を閉じていた。明子と混ざり合えるのは嬉しいのに、わたしのこころは決して自由じゃなかった。きっと、永遠にそうなんだろう。

「どっか行きたいって思わないの?」

 もう一度同じ服を着る気にならなくて、全裸で服と下着を畳みながら明子に訊いた。

「え、今度の休みどっか連れてってくれるの?」

「そうじゃないよ」

 いつまで明子はこんなトコロにわたしと閉じこもっているつもりなんだろう。

 明子は明子自身のことをどんなふうに思っているんだろう。いままでのこと、これからのこと、他人との関係をどんなふうに思っているんだろう。大事なことを話し合わずに、五年が経った。そしてきっとこれからもわたしは胸の内を明かさないまま、明子の羽を少しずつ抜き続けてどこにも行けないように仕向ける。

 わたしのずるさを見抜いてくれればいいのに。きっとそんなことをしない明子だからこそ、好きでいられるのだろう。

 真実なんてどこにもないけれど、ここにあるすべてが真実だ。誤魔化すようにキスをした。胸が苦しいと思いながらも、きょうみたいな日が永遠に続きますようにと矛盾をわかりながら、夢中で舌を絡めた。

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