「デザインの教育」をデザインする——FONTPLUS DAYでおはなししたこと

3月13日、FONTPLUS DAY にて、講座をおこないました。昨年のおなじころにも『 FONTPLUS DAY 東洋美術学校 Day 』とし、東洋美術学校 非常勤講師でもある河野三男さんと中村で『タイポグラフィの学び方』というタイトルの講座をおこないました。こちらはそれについで二回目となるもの。中村ひとりでの登壇となりました。東洋美術学校ではタイポグラフィ領域の授業は多数開講していますが、わたしの自身はデザインの基礎課程や全体のカリキュラム / プログラムの設計を担当する立場。ですから今回は、わたしなりのデザイン基礎教育のとらえかたと、その実践についておはなしをしました。


「デザインの教育」をデザインする

こんばんは。ご紹介賜りました中村です。本日はお集まりくださり、ありがとうございます。さて、ここからは「デザイン教育のデザイン」として、わたしが東洋美術学校の四年制学科や一年制夜間部でおこなっている事例をまじえつつ、おはなしをしていきます。ちょうど年度があければ、東洋美術学校の講師をはじめて十年目を迎えることとなります。節目といえば節目です。なんの講師ですか?と尋ねられる機会もおおいのですが、これがなかなかひとことで説明することが難しい。今回、せっかくの機会をいただいたこともあり、わたしがこれまでデザインの教育にたずさわるなかで、いろいろと考えてきたことをまとめてみようとおもいます。

そういうと、どうしても自分語りになることを避けて通れないのですが、わたし自身はだらしのない、いいかげんな性格もあって、なにか、これがやりたい、というような個人としての意識をもって仕事をしてきたわけではなく、教育機関としてもともとあったところに身を委ねながら、そこで、こうすればいいんじゃないかな?みたいな立場にいたようにおもいます。それはデザインの教育の交通整理といいますか、ある種の編集ともいえるかもしれませんし、より大袈裟な表現をすれば「デザイン教育をデザイン」している、ともいえるかもしれません。

こうした立場でデザインのはなしをしていると、ありがたいことに、最近では schoo をはじめとした社会人むけ、あるいはデザイナー以外を対象にしたデザインの講座の機会にも恵まれてきました。じつは、そうしてこの十年間で実践してきたことは専門者の教育以外、つまり、一般教養としても必要であり有効なのではないか? と考えていましたから、ありがたいものです。

では、どういうことをしてきたか?といえば、ひとことでいえば、デザインのそもそものはなしです。たとえば、この会場は、デザインやタイポグラフィになにかしらのかたちで携わっておられるかたがおおいかとおもいますが、デザインというものをひとことで説明できるかた、いらっしゃいますか? すごく意地悪な質問でしたね。大丈夫、自覚はあります(笑)今日、さまざまなところで「デザイン」という言葉はつかわれているのは、おそらくみなさん、実感としてあるものでしょう。テレビでは俳優が住んでいるデザイナーズ・マンションが紹介されていたり、モデルの誰それがデザインしたノベルティというものが出てくる。それからビジネスでは思考のデザインやキャリア・デザイン、組織のデザイン……というものまである。かなり多岐にわたり、おおそよ把握できないくらい「デザイン」という言葉や概念は使われています。

そのいっぽうで、デザインの意味を理解しているひとはすくない。でも、これは当然の話で現状、義務教育をはじめ、だれもが学べるかたちで、デザインというものは扱われていません。いつのまにか触れていて、気づけば無自覚にその言葉をつかっている……というケースが多いのではないでしょうか。ちなみに、中等高等教育の『美術』でおこなわれるデザイン課題、つまりポスターや平面構成というものが、デザインの極々一部であることは2019年の今日時点では、すでにみなさんおわかりでしょう。

では、専門者の教育はどうなっているか?というと、どうでしょう。わたしの場合、デザイン科のある高等学校を卒業し、美大進学予備校で二年間ほど浪人し、美術大学を経て、現在はデザインの専門学校に勤務しつつ、こうして学外での講座にも携わっています。仕事柄、そのほかにも教育研究機関の視察・研修などもおこなっています。しかし、そのなかで行われている教育は大概、専門分野に特化したもので、そもそもデザインがなんなのか、というのは、案外、専門外の方と同じような状況であるといえます。いわゆるスペリシャリストの講師陣による、スペシャリスト育成がおこわれているといってよい。

東洋美術学校では、このプログラム表にもあるとおり「タイポグラフィ」をはじめ「販売促進」や「インターフェース・デザイン」あるいは「サイン計画」などなど、ちょっと足を踏み込んでいるひとであれば、そのタイトルを目にするだけで、どのような専門学習・研究がおこなわれているのか想像ができるようなものです。あるいは一枚看板でご活躍されているかたを指導者として開講されている授業も、ああ、あの方であれば、こんな感じの内容かな?とおなじように把握できるかもしれません。これは、他の教育研究機関でも大差ないとみています。でも、デザインがそもそもなんなのか?それについてはどこで触れるのでしょうか?

あらかじめ断っておきますが、これはなにもスペシャリストによる教育が悪い、といっているわけではありません。ただ、ジェネラルなデザインの教育も当然、あり得ますし、それが現状、抜けており、バランスがよろしくないのではないかと考えているのです。それに、そもそもデザインというのが、どんな営みなのか。それを知らずしてスペシャリストとしての育成を受けるのは、すこし距離があるというか、違和感をおぼえます。

もっというなれば、そうして、そもそもデザインとはなにか、ということを専門者ばかりではなく、ひろく一般に理解されることで、齟齬が解消されるばかりか、質の高いデザインを生む土壌を拵えることができるのではないかと、考えているのです。医療にたとえれば、実際に病状を診察・判断し、施術や治療計画・投薬をおこなうのは、専門者たる医師の領域ですし、そこには専門者以外は干渉してはならないでしょう。しかし心身ともに健康であることや、それが害したとき適切に治癒してゆくことは、だれしものことであるはずです。そのためには、医療への最低限の知識と教養——つまり、この状態なら市販薬でいいのか、それとも病院に行く方がいいのか、病院であれば何科にかかればいいのか、その病院の規模はどれほどのものか——ということが必要になります。

そうした意味で、わたしは現在、町医者のような立場でデザインの教育に携わっているともいえます。大学病院では高度かつ、専門領域に細分化された医療があります。でも「なんだか漠然と気分がすぐれない」というとき、どのセクションをたずねればいいのか自覚しているひとはいないとおもいます。むしろ、素人の自己判断は危険ともいえる。では、そうしたとき、どうするか?ひとまず町のちいさな病院をたずねることになるとおもいます。そこで状況をみて、医師によりその後の治療が判断されてゆく。あるいは、重篤な場合、より専門的なところを紹介される——学科・専攻全体のなかで、そうした立位置にいるといえます。

こんにちにおけるデザインの状態をふまえれば、そうしてはじめの段階で教養的にデザインを包括的に把握することもまた必要でしょう。さまざまなアプリケーションをインストールすることは重要だけど、それを稼動できるOSを自身のなかにつくっておく必要がある。もちろん、こうしたことを、わたしのような若輩者が試みるというのは、あまりに厚かましく、不敬なことかもしれません。しかし、デザインの専門教育・研究機関であれ、それをとりまく世間の状況をふまえれば、だれかがやらないといけないことであるのは明白です。なかには、そうしたことは体験しながら理解してゆくことだ、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょうし、それを否定はしません。だけども、このような視点をもつものがいても、悪いことではないでしょう。

さて、前置きがながくなりましたが、いよいよ本題です。わたしがこの十年間、東洋美術学校をはじめとし、外部講座などさまざまなところでこころみたのは、そうした「デザインのそもそもの」はなしです。教育研究機関でも、入門書などをみると、デザインの2とか3の段階から始まっているきらいがある。つまり、0とか1の話はあまり知られていないのではないでしょうか。現状、イントロダクション不在の楽曲というか、そういう印象を受けます。音楽の場合、イントロダクションによって、それがどんな楽曲かを把握することができますよね。でもいきなりはじまるとすれば、聴きながら把握してゆく必要がある。それは、エンターテイメントとしてはスリリングでいいかもしれないけれど、教育となると、すこしまずいかもしれない。


1|デザインの定義——そもそもデザインとはなにか?
では、デザインとはなにか。私自身、そう尋ねられると、デザインはインフラストラクチャであるとこたえます。つまり水道やガス、電気、交通に流通、それから医療とおなじ類のものと認識しています。要するに、それが生活基盤であり、それ無しでは暮らしていけないものであるということです。そんな大事な、という指摘もあるかもしれませんが、まずは身近なものを例にあげます。これはわたしが一年生の最初の授業で、受講者に尋ねる質問です。ひとまず、みなさん「今、ミネラルウォータが飲みたい」人になってください。そして、それが手元にないから、どこかに調達しないといけない……という状況とします。

さて、画面にでているふたつ、このどちらに入りますか?ありがとうございます。聞くまでもないですね。なにをそんな当たり前のことを……と考えるかたもおおいでしょうけれど、そんな当たり前のことだから大事なのです。手が上がらなかった方は、いわば蕎麦屋ですよね。で、圧倒的に手が上がった方、こちらはコンビニエンスストアです。実際にここにそれらの店舗がある訳ではなく、写真をみただけでも明らかな結果がでました。でも、なぜでしょう? ひとまず話を先に進めます。では、こちらのコンビニエンスストアでは、このふたつが並んでいた。どちらを手にしますか?もちろん、気が変わったは無しです。当初の予定通り、ミネラルウォータを飲みたい人でいてください。これもまた明快な回答です。でも、それはなぜでしょうか?

いうまでもなく、それぞれが見た目において「コンビニエンスストアである」「蕎麦屋である」「ミネラルウォータである」「オレンジジュースである」という主張をしています。これは、視覚要素をもちいたコミュニケーションです。ほかにも電車、特に慣れないところへ向かう場合は、こうして路線図などでおおよその位置関係や路線、代金を確認してから、実際にこうした案内をみて下車していることでしょう。反対に、これらが存在しないとどうでしょうか? どこでミネラルウォータを手にできるかわからない、そもそもミネラルウォータがどれかわからない、どこか新宿駅かわからない——結構、恐ろしいことになるとおもいます。このように、わたしたちの日常生活は想像以上にデザインにより支えられていますし、それがひとつの基盤にあることがわかります。

水道をひねると水が出るわけで、それはともすれば当たり前であり、その重要性はなかなか気づきにくいものです。時折、災害時などでようやく自覚したりする。デザインもまた、そうして、ともすれば極々当然の日常に浸透しているので、それがなにかを意識することは、難しい。デザインのそもそもの話がわかりにくいのは、こうしたところにも要因があるとみることができます。

加えてすこし辞書を引いてみましょう。昨年のはじめに出版された『広辞苑 第7版』と『オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー』からの引用です。ちなみに『 O.E.D. 』のほうは、河野三男先生に翻訳していただきました。こうして名詞と動詞が混在していることも、デザインということばのややこしさを助長しているのかもしれません。だから「このデザインいいよね」という使い方も「デザインする」という使い方も正解。

さて、デザインをインフラストラクチャとすれば、それはどんなことか。たとえば、わたしが現在所属しているのは、コミュニケーション・デザイン専攻とグラフィック・デザイン科、そこで扱われるのはヴィジュアル・コミュニケーションとしてのインフラストラクチャであるといえるでしょう。

さきほどのミネラルウォータをあらためてみてみましょう。名称をふくめた文字、それから緑系・青系、なにより透明感を活かした色彩、波や河原の石を想起するようなかたち——それらは、いずれも水、ミネラルウォータとしての文脈を形成しています。ちなみに私個人は、こうしたヴィジュアル・コミュニケーションのデザインにおいて、もっとも、そのインフラストラクチャ性がつよいものがタイポグラフィであると考えています。それが言語を可視化した文字であり、それを規格化した活字ですから、安定している。このミネラルウォータのパッケージ・デザインは活字ではなく、作字にあたるのですが、どうでしょう、よくみれば水らしいニュアンスがいたるところにあります。活字だと他のアプローチで水らしさを形成することになりますが、ここでは作字ならではの効果を狙っていますね。


2|視覚コミュニケーションのインフラストラクチャとしてのタイポグラフィ
わたしはいま、ここで日本語でお話をしています。ここで突然、フランス語やロシア語で話し始めたら、いわずもかな、みなさん戸惑うでしょう。それはなぜか。唐突ということももちろんありますが、なにより、自分たちが使い慣れない言語であると、コミュニケーションに支障がでてしまう。わざわざ話を聞いているのに、それはちょっと……ということになります。ちなみに私はフランス語もロシア語はもちろん、日本語以外の言語はお話できないので、ご安心ください。

ここで言いたいのは、言語をもちいたコミュニケーションというのは、それくらいウェイトがおおきく、とても重要なものであるということです。言語、そしてそれを可視化し、定着した文字によるコミュニケーションにわたしたちは大きく支えられています。文字によるコミュニケーションを、規格化することで安定的に使用できるようににしたものが活字、というところも触れておきましょう。「上を向いてください」はい、いまのスライドは無意味に出しました。でも、反応するひともいましたよね。それくらい言語と、その可視化された文字によるコミュニケーションは、私たちによって不可欠なものなのです。

くわえて、おなじ「こんにちは」でも、体育会系の部活動の男性と、京都あたりの老舗旅館の女将ではちがう「こんにちは」になるでしょう。わたしたちも状況にあわせて声色や音量をコントロールしています。デザインでもおなじように環境や目的に応じて、それぞれに「こんにちは」を最適化させることが、良質なコミュニケーションであるはずです。


3|デザインは目的への最適解
さて、タイポグラフィに限らず、デザインはひとまず目的への最適解をおこなう行為ともいって差し支えないと考えます。これもまた入学したての学生に見せている画像です。ふたつの椅子があります。ちなみにアルネ・ヤコブセンによる『スワンチェア』と、アルヴァ・アアルトによる『スツール60』。ともに北欧モダニズムの傑作家具ですね。もちろん、どちらも素晴らしい。だけれど、それがくつろぐためのものか、あるいは靴紐なんかを結ぶとき、すこし腰掛ける程度のものなのかで、どちらが最適なのかというのは、みなさん経験則的におわかりになることでしょう。

タイポグラフィの話だと、こういうものがありますよね。二種類のCです。おわかりでしょう。ともにアドリアン・フルティガーによる傑作書体です。片方は Univers、もうひとつは Frutiger。ニコラ・ジェンソンによるローマン体活字の骨格をもつ Univers、シャルル・ド・ゴール空港におけるサイン・デザイン計画を目的とした Frutiger。ある意味で、それは読むためのものと、見るためのものといえるでしょう。組版としてはこうしたものが考えられます。長文か短文か。印刷かスクリーンか。そのテキストやメディア特性ごとに、最適解があります。


4|東洋美術学校での事例
では、そうした「デザインのそもそも」について、どのように教育の現場で実践をしているのか、すこし紹介いたします。私の場合。四年制のコミュニケーション・デザイン専攻の一年次でおこなうものと、一年制 夜間部グラフィックデザイン科を担当していますが、基本的にはおなじ内容です。ただ四年制のほうは、高校を卒業したばかりの現役生が中心であり、時間もかけられるので、より経験主体のものになっており、夜間部のほうは社会時やダブルスクールの傾向がおおく、時間も短いためそれにあわせ、論理主体になっています。

●いいデザイン・わるいデザイン
最初におこなうのはこの課題です。四年制専攻のほうでは、入学式の翌日に出題されるものです。いいデザインと悪いデザインを、それぞれ50点、実際に撮影しながら集めてもらいます。そのなかから特にいいと考えたもの3点と、特に悪いと考えたもの3点は、それぞれ言語化してしてもらいます。これを初回授業までの数日間でおこなっていただく、かなり嫌な課題です(笑)そもそも、この段階ではデザインの良し悪しというのも、判断したことないかたがほとんどであるとおもいます。なにより、好き・嫌いではなく、いい・わるいですからね。それなりに考えないと先に進めません。

初回の授業ではこれをもとにディスカッションをおこないます。なぜ、それがいいのか、わるいのか、全体で共有してゆく。ここで、デザインはかなずしも主観で判断できないということ、その価値基準に多様性があることに気づいてもらいます。また目的へ最適化されていないと、往々にして悪いという判断をするのはなぜか、それについて問題を共有するという趣旨です。この課題ではまず経験しながらデータベースを蓄えること、それから、なぜ、そう感じたのか・考えたのかを言語化することに重きを置いています。

クラスで満場一致で悪い、と判断されたデザインをテーマとして次の課題はスタートします。具体的にはそれらをリ・デザインするというもの。ここで、なぜそれが悪いデザインであったのか、それを改善するにはどんなことが必要なのか。そうしたことをスタディしてゆくプロセスとなります。

フィールドワーク
続いてフィールドワークです。これも「いいデザイン・悪いデザイン」にちかい、インプットからその自覚をおこなうワークです。具体的には5、6名のグループで特性のちがう街ふたつに出かけてゆく。たとえば丸の内と渋谷は、あきらかに違う街です。でも、なぜ、そう感じるのか? それぞれの場におけるデザインを紐解いてゆけば、その理由がわかります。街にでて調査し、その後、各グループでまとめながら、自覚するというプロセスです。案外、デザインを目指しながらも、デザインの実際を知らないというか、意識していないひとがおおい。書籍や雑誌、ウェブで「大人のショコラカフェ」とか紹介されることを知ることも大事ですが、それがどんな環境で成立しているのかを経験しておくことも必要。そうした意味では、意識的に街をあるくことが、デザインの現場、デザインの実際を知ることになるとおもいます。

編集のデザイン
こちらは個人ワークです。あるテーマを調査し、それをふまえた文章を作成し、それを素材として編集しながら、小冊子をつくるというもの。この一連の過程すべてがデザイン・ワークであると認識しています。フィールドワークと同様に前例を知ってほしい、というおもいもあって、この数年は工業デザイナーの柳宗理さんをテーマにしています。調査するなかで、デザインの巨匠のアティチュードを知ることができればいいな、との思いもあります。

くわえて、それを言語化し作文することも大事なことだと考えています。作文すると、見出しに本文、キャプションと文章の階層・ヒエラルキーをつくることになります。そうして構造的に文章を制作する、それもひとつ広義のタイポグラフィといえますよね。

どうじにこうしたワークショップもおこなっています。活字の規格を体験するものです。最初はただ文字を羅列しただけ画面を切り貼りしながら、ベタ組み、字間調整、行間ベタ、行間調整、縦組みと調整してゆきます。金属活字以来、脈々とつづく構造。この課題では、自作のテキストを冊子化する際、本文書体と組版をそれぞれ、かなり入念に検討してもらいます。で、それをもとにグリッド・システムとまではいかないけれど、いわば本文サイズを基準として、テキストと図版、それから余白を同一基準であつかうことも経験してもらう。そうした勘定がいくデザインをおこなうにあたり、こうした活字のそもそもの構造を把握することは不可欠です。これもまた、ひとつの基盤であると考えます。

様式研究
これもまた過去の事例を経験的に理解するものです。ヤン・チヒョルトの扉ページと、ウルム造形大学の紀要を再現してもらいます。耳コピならぬ目コピ。実はデザインの教育にに携わりながら、ずっと不思議だったことがありまして、それは、前例を真似するトレーニングをしないことなんです。というのも、音楽の世界では街場のビギナー・バンドの方々も、ベテランのクラシック奏者もジャズ・ミュージシャンも、かならずコピーをしますよね。それで、音楽の構造や様式を体験的に把握してゆく。たとえばバッハの無伴奏チェロ組曲なんかは、その筋ではみなが演奏を経験しているものだったりします。あるいは、ジャズだと『Autumn Leaves』とか『All the things you are』、ロックだと『Smoke on the water』とか。わたしの世代ではMr. Bigだったり——関係者多くの共通体験・基盤としての、いわば「定番」の楽曲が存在しています。こうした鍛錬はなにも音楽だけに限らないことでしょう。

そうしたことで、チヒョルトのセンタードの画面と、ウルムのモダニズムならではの画面を再現していただきます。こうしたモダニズムや西洋のデザインは、メソッド化・様式化して体系化もされているから、ある種のまなびやすさがあります。チヒョルトは例の分割で、ウルムはグリッドで、紙面が構造化されているところも課題としてふさわしいとみています。またウルムほうにいたっては、グリッド・システムを割り出すところまでおこない、その後、同一のグリッド・システムとテキスト、図版をつかって異なるレイアウトも試みてみています。構造や活字書体・組版の設定が安定していれば、さまざまな展開が成立しうるものになるという点も理解してもらえるかと。

場のデザイン
最終課題は「場をデザインする」というものです。ヴィジュアル・コミュニケーションの要素を使っていれば、極端にいえばなんでもいい。だけれども、その場にふさわしいかいなかという点がかなめとなります。いわゆるEnvironmental ではなく、Ambient としての環境デザインを模索するプロセスともいえます。これは出身地や居住地ごとに5、6名のグループを形成し、それぞれが設定した任意の場所を徹底的にフィールドワークする。そこにふわさしい、ひとの集う場をデザインしてゆきます。いわば定量化できない最適解を模索するというもの。さきにあげた様式化・規格化されたデザインが、どこでも・いつでも成立するものだとすれば、ここでは、そこ、でなければ成立しえないものを考える機会です。なぜ、こういうことを課題に取り組むかという理由は、次にお話しする通りです。

5|西洋と東洋
21世紀の初期にいきるわたしにしてみれば、西洋と東洋というものをあらためて再考する段階を迎えていると考えています。ちょうど今年は2019年。バウハウスの創立が1919年ですから、それから100年を迎えたわけです。諸説はあれども、20世紀以降の基準となった出来事からそれだけの時間をみています。ちなみにバウハウスの学長をつとめたウォルター・グロピウスは1883年生まれ。わたしは1983年生まれなので、ちょうど100個上です。時代に名を刻んだ大巨匠と比較するのはなんとも恐縮ですが、その後の時代の基準となったプログラムが、自分と同じ歳の人間が作っていたと考えると、なにか意識してしまうものでもあります。

さて、1919年にこうしてひとつ顕在化したモダニズムですが、それを端的にあらわせば、ヨーロッパの拡張としての国際化であったといえるでしょう。日本においては、それを享受うする側であったというのは、経験的にみなさん把握されているとおりです。たとえば Adobe Illustrator でデフォルトで文字を流し込むと、サンセリフ活字で、横組み、片流れとなる。これ、よく考えてみれば、まさにモダニズムの様式なんですよね。初期設定が。ですから、日本語の組版としてなじませるには、それなりに手を加える必要がある。「場のデザイン」課題でも紹介しましたが、これからはグローバル感覚をふまえつつも、それぞれに最適化されてゆくデザインというものが模索され、実践されていくことになるとみています。20世紀は産業から情報へとモードチェンジをしつつ、国際化というお題目を定着させましたが、その究極系ともいえるインターネットの完成は、むしろ個々の違いを浮き彫りにし、多様性を認めることとなったのではないでしょうか。

西洋のデザインは——否、そもそも西洋そのものがそうなのですが、やはりメソッド化、体系化させることに長けている。いっぽうで、東洋は定量化できないものを経験的に理解してゆく。西洋が足し算引き算と、構築的に組み立てていくプロセスだとすれば、東洋は混沌を濾過してゆく。二元論的に判断をする「わかる」と、経験値をふまえ身体的に溶けた「わかる」。ある種、対照的でもありますが、いまにいきるわたしたちは、このふたつの視点をハイブリットにとらえていいとおもう。

バウハウスとマックス・ビルそして鈴木大拙
有名なバウハウスのカリキュラムは、さまざまなデ­­ザインの目的として建築(ビルディング)を掲げました。そこに学び、のちにウルム造形大学学長を務めたマックス・ビルは「デザインの目的は——それがグラフィック・デザインであれ、プロダクト・デザインであれ、建築であれ——すべて環境デザインである」といいます。これらをふまえると、人を中心としながら、グラフィックス、プロダクト、建築、都市計画、環境——と同心円状に、その対象範囲が拡張してゆく見方といえます。対象を環境としながらも、どこかで人間が切り離された感覚もおぼえます。

いっぽうで、鈴木大拙が環境というのは、人も環境の一部であり、それらは未分であり、並列といいます。谷崎潤一郎による『陰翳礼讃』をみると、そこでは羊羹や屏風などがあげられながらも、固有のものだけではなく、その状況や時間の変化に着目している。それぞれが独立切断されたものではない。マックス・ビルのいう環境が Environmental だとすれば、こうしたものは Ambient であると言えるかもしれません。環境音楽の環境ですね。ある状況、場とでもいうか。これは二元論——光と闇、善と悪、神と人——としての西洋と、色即是空空即是色という東洋のちがいともいえるかもしれません。極めて大雑把にいえば、それはカトリックと仏教のちがいともいえます。曖昧さを自覚し、認めること時に有効でしょう。別に東洋礼賛とはいいません。しかし、わたしもそうですがどうしてもデザイン、あるいは美術・造形というのは西洋の輸入・翻訳が中心軸にあり、東洋とか、風土個々ののものごとは、サブ・カテゴリとして扱われるきらいがある。でも、こうしてわたしたちにとって地に足のついたデザインというのは、これからのキーワードになると考えています。

ちなみにこれは一例。長谷川等伯による『松林図屏風』とラファエロの絵画です。ともに15世紀のもの。ルネサンスの美術は数学的・科学的な時代であったことはご存知のかたも多いでしょう。それはまさに二元的な視点思考の賜物であるといえます。

アルベルティの『絵画論』では「面の上の点、点と点をむすんだ線、線の移動としての面」と、現在にも通じる造形要素の分析と定義がおこなわれています。まず、面の上の点なんですね。最初から二元的。面の上に描画するというのが Adobe Photoshop のレイヤー構造を想起します。点と点をむすぶ線というのは、まさにベジェ曲線そのものですね。近代ではヴァリシー・カンディンスキーもおなじように点・線・面で造形要素を整理していますが、ルネサンス期のアルベルティ——モダニズムのカンディンスキー—— Adobe の造形アプリケーション——というのは、単一線の文脈といえます。要素を二元的に分断することで、システムが成立してゆくんですよね。

いっぽうで『松林図屏風』は、紙に墨が馴染み、それが未分でありながらも、これはこれで固有の空間性を出しています。ルネサンス絵画、『松林図屏風』それぞれのリアリティがあるといえるでしょう。ルネサンス絵画のほうは遠近法が成立する位置から鑑賞しなければ、その対象を正確に捉えることはできません。ある意味で、鑑賞者と絵画が切断された関係にあるといえます。『松林図屏風』のほうはというと、これ、実際にみるとわかるのですが、あたかもそこにいるような感覚をおぼえます。湿度や温度、もやなどなど。それが過去の経験かどうかはわからないけれど、そうしたものを想起する。どこかインスタレーション的な体験を覚えるものです。繰り返しになりますが、これらはそれぞれ異なる良さをもっています。デザインやタイポグラフィにおいても、次のヒントとして、こうした未分という視点はあながち無視はできない気もします。


6|基礎教養としてのDesign
このプログラムをおこなうことでアイデアがでないとか、デザインや課題がわからない、という、そもそもが踏み込めない生徒が随分減りました。ほかの講師陣や卒業生とはなすに、この成果として全体の安定的な底上げはできたといえるようです。もちろん、それはこればかりではなく、他の授業との連携ありきのものです。しかし、その交通整理をおこなったことには一定の成果をみてもよいかもしれません。

はじめにもおはなししましたが、専門的なアプリケーションをインストールして、正確に稼動させるには、そのための OS が必要になる。いっときビジネスの世界でデザイン・シンキングが流行しましたが、あまり定着しなかったのは、それらをおこなおうとしたひとたちが、デザイン・シンキングというアプリケーションが起動しない OS だったからなのかもしれません。

授業ではこうしたことをおこないながら、受講生それぞれをチューニングすることが、わたしが東洋美術学校においておこなってきた試みです。西洋医学の薬は、その問題が起きたとき、短時間で局所的に効果をだす。いっぽう、漢方薬とか鍼灸とか、東洋医学においては、時間をかけながら体質そのものをかえていきます。私がこうした場で目指すのはそうしたものかもしれません。デザインのそもそもについて経験的に把握してもらい、自身の特性にあわせた他の専門領域においてスペシャリストとして成長してもらうという流れ。デザインの教育機関での事例はこんなところですし、デザイナー以外を対象にした講座でも、それぞれの受講生層にあわせ最適化をしています。

こうして、デザインの教育をデザインしてゆくこと。そして、デザイン、あるいはタイポグラフィの根幹にあるインフラストラクチャとしての性質を自覚し、デザインのインサイダー、アウトサイダーを問わず、基盤となる教養として展開してゆくことが、私がこれまでの仕事のなかで試みてきたことでした。まだまだ課題はおおいですし、その普及にも時間がかかるものですし、なによりわたし一人の手には到底追えない。だけれども、人類の営みとともに必然的に付随し、その必要性が以前にも増して認識される今とこれからこそ「デザインのそもそも」について、共有認識としてみなが把握することは必要であると考えています。ご静聴、ありがとうございました。


14 March 2019

中村将大

FONTPLUS DAYセミナー Vol. 19『タイポグラフィの学び方2』
2019年3月13日 水曜日 19:00—21:30
主催: ソフトバンク・テクノロジー株式会社 / AZM Design
協力: 有限会社アップルップル / ファーストサーバ株式会社 / 株式会社mgn / 株式会社環 / フォントワークス株式会社 / 学校法人専門学校 東洋美術学校
於: ソフトバンク・テクノロジー株式会社 新宿オフィス
|補足|
当日の講座プログラムは3部構成。第1部では東洋美術学校のタイポグラフィ教育について紹介をし、第3部では schoo『素人が「デザインのセンス」を磨く生放送ワークショップ』につづき東洋美術学校の在校生 羽賀日菜子さん、嶋田幸乃さんにご登壇いただき、座談会をおこなった。ここで紹介した「デザイン教育のデザイン」は第2部ではなしたものとなる。


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