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いやいや、逆なんです。適応力のはなし。

例えば絵について。私、子ども時代に毎日毎日描いていて、そりゃあもうコツコツやってたんですね。
漫画が描きたいとなれば画材研究して練習しまくってました。お小遣いはそこに全投入。毎日2、3時間は当たり前。

で、そういう話しすると、すごいとか才能がとか言われますが、違うんです〜〜

描かない方が苦しかったんです。


中学高校ではたびたび昼夜逆転してましたが、
生活リズム守っていたら上手くなれないんで、
そんなの生きてる意味がなかったんです。😅

田舎すぎて、幼い頃から友達も近所にはいなくて
やる事がなかったのもありました。(中高生になれば待ち合わせできるようになったけど)
農家だから畑はあるけど、当時は全く魅力など分からなかったし、、。

上手くいったときのたまらないトキメキをやめるなんて?

つまり、そんな強さがなかっただけでした(笑)やりたいこと我慢して生きたいなんて思わなかった。家庭も不安定だったし、あの時は生きる理由として、それが必要でした。

今振り返ると、自分の身体にその技術を染み込ませたかった、確立できる何かを手に入れて安心したかったんだなぁと分かります。


今は、またガラッと変わりましたが、弱いからこそコツコツやることがあります。

例えば今は、学校へ通わない子ども達がいる。
ブツ切れて全て家庭で考えられればいいのかもしれませんが、
私の場合先生との交流はわりとマメにやってますし、隙あらば交渉して考察して子どもとも繋げます。

理由は、その方が楽なんです😅

どうせ断たない関係なので。ならば慣れておき、感情の波をなるべく凪の状態にしときたいだけ。
麻痺というより習慣化したいだけ。たまーに電話することのストレスの方が大きくて引きずる😅


全く違うように思うけど昔の自分と重ねるなら、

ある程度、自分に「適応」させときたい部分がそこ、というだけ。

私、全く強くない。

でも、最近も野菜を見ててよく肯定されてます。

野菜は、その土に適応して初めて伸びます。

適応できないと芽が出ないし、芽が出ても育たない。
不自由から勝ち取る生命力。

生きもがくこと、
自分の持つ能力を駆使して栄養をかき集める。

そして、届かないものは自然に沙汰されてゆく。

厳しいというか、いやいやそういうもんだな、と納得します。

弱い者は枯れてゆくしかない、と言いたいわけじゃなくて、自然の摂理。

最近まで適応教室というブーイング対象のネーミングがありましたが、(笑)
適応力って学びであり成長でもある。

適応したいその道や、使い方は、自分で選べばいいのだと思ったんです。

私個人でいうなら、(子どもはこの際外野です笑)
学校との付き合いはストレスが大きいため、少しでも軽減させるための適応。でしょうか。まぁ本来いらない努力(笑)だけど、今の時代まだ切れない部分。


違う時代や違う国に生きていたら、きっとラクだったなぁと思うこともよくあります。

でもそう感じてない人もいるし、その人達は他の時代や国にいたら苦しかったのかも。
いや、みんなただ適応してるだけかも。


弱いからこそ家族や、今いる地域をメインに、今いるここで、繋がっていく。
生きるために自分なりの生きやすさを見つける。
自分が安心する手段を増やす。

母親として勝手に身体がうごく今、子どもに安心やリラックスを与えることがまずいちばんだと私個人では思っているからでしょう。

自分が心から安心したり、信頼できる人を周りに置くことが、今の私の優先的な仕事なんでしょう(それはきっと変わっていくことでもありますが)

まぁ、あくまでも私個人のことです。

皆さんが適応したいと根を伸ばす部分の「違い」こそが、多様性だと感じています😊

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