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【ルーツ宮城●名取老女の伝説】②熊野本宮社(名取熊野三社)


名取熊野三社は、名取市の高舘山と、
その麓に位置しています。

紀州(和歌山県)熊野の地は、
古くから自然信仰の聖地・霊地として
人々尊崇の対象で特別な地域と
されてきました。
 熊野三山の内、
最も古いとされる本宮大社は
家津御子神(キツミコノカミ)、
新宮大社は熊野川の下流にあり
速玉神(ハヤタマノカミ)、
那智大社は飛龍権現ともいわれ、
那智の大滝を御神体とし
古くから行者の修行の場であったが、
後に夫須美神(ムスビノカミ)(生産神)を
祀っています。
 三山信仰が盛んになり、
特に平安末期頃
仏教と神道の神仏習合に
浄土信仰が結びついて発展し
(熊野の場合は、本宮社の神=阿弥陀、
新宮社の神=薬師、
那智社の神=千手観音と同一:
熊野は三尊が集まる浄土)、
熊野三山には熊野三所制度が確立し、
熊野山伏や先達によって
熊野信仰が広がっていきました。
 東北地方における
名取熊野三社については、
仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、
高舘丘陵を熊野連山に模して、
本宮、新宮、那智の三社が
他の地域と異なり別々に
勧請されています。
名取熊野本宮社は家津御子神、
新宮社は速玉神、
那智神社は夫須美神を主神として
社も別々に建てられ、縮小版的で、
まさに、紀州熊野三山の世界を
再現するかのような勧請のされ方は、
名取熊野三社は東北太平洋沿いにおける
熊野信仰布教の一大拠点として
ふさわしい姿であったと考えられます。
 名取熊野神社の縁起によれば、
保安年間(1120~1124)に
名取老女によって勧請されたと
伝えられていますが、
文献記録などから既に
平安時代の終わり頃には
熊野三社は存在していたと
考えられています。
「吾妻鏡」文治5年 (1189年)からは、
名取熊野の金剛別当秀綱は
奥州藤原泰衡の後見人として
強大に勢力を誇っていたことが知られ、
このことから、名取熊野別当は
東北では軍事的に武士団の棟梁で、
宗教的には熊野権現の名において
修験教団の管長であったことがわかります。

(名取市)

一社一社、ご紹介いたします。

熊野本宮社

ご祭神

熊野櫛御家都御子大神(素盞嗚尊)、
熊野牟須美大神(伊弉冉尊)、
熊野速玉之男大神(伊弉諾尊)を
主祭神とし、
他に11柱神を配祀。
(本地垂迹思想で、熊野権現)


紀州(和歌山県)の熊野本宮大社の
大神様の御霊が分けいただいて
お祀りした神社です。
名取老女が紀州の熊野三社の御霊を
名取の里に勧請したと言い伝えられる
名取の熊野三社
(熊野本宮社・熊野新宮社・
熊野那智神社)の一社でありまして、
勧請された年代は詳らかではないが、
初め、名取郡長岡三色吉(現、岩沼市)に
小祠を建てお祀りしていたが、
平安時代の天仁年間(1108)
神託によって、
熊野坐大神の鎮り処に
応しい場所を探し求め、霊烏の道案内で、
熊野堂の地に辿り着き、
名取川を紀州熊野の熊野川に見立て、
地形も似ている現社地の
南西500メートル程の
小館(オダテ)という処に
最終的に勧請されたのは、
平安時代の
保安元年(1120)4月8日
伝えられています。
また地名も紀州熊野本宮大社の
大齋原に準えて大原と称していたという。
別名、本宮十二神。

なんと、後ろ向きになっていたのは、
庚申の青面金剛さま

池が、あります。

祓橋の下には、音無川。
小川のような川です。

現在の本殿建物は、
江戸時代の元禄6年(1693)に
建て替えられたもので、
拝殿等は昭和9年に建てたものです。

源頼朝が奥州平泉東征をする際、
当社に武運を祈願し軍に赴き
霊験あらたかな様を覚え、
文治5年(1189年)9月
再び詣でて深く謝拝したと伝えられている。
それ以来武家諸公の崇敬が篤く、
永禄6年(1563年)12月、
奥州探題伊達晴宗より
熊野本宮本殿屋根葺替並びに
神輿、神馬、馬具等が奉納されている。

万治元年(1658年)に現社地に遷座。
現本殿は元禄6年(1693年)に建て替えられ、
長床、鐘楼、神輿殿などの
建物が建てられた。
また昭和8年(1933年)に
拝殿、社務所、摂社を建設し、
昭和58年(1983年)に
本殿を営繕し幣殿、社務所の
建替え整備が行われている。

戦国時代末から
伊達家との繋がりを持ち、
伊達政宗公の仙台開府以降は、
仙台藩から毎年玄米3石5斗を
拝領するなど、厚く保護されていました。

古く山伏によって伝えられたという
市指定無形民俗文化財の
熊野堂十二神鹿踊が保存継承されている。

(ウィキペディアより)

神楽殿

御輿社

御本殿

社務所

朗読 渡辺祥子さん

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