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【ルーツ宮城●名取老女の伝説】➂熊野那智神社(名取熊野三社)

熊野那智神社

ご祭神

羽黒飛龍神、熊野夫須美神

配祀

黄泉事解男命(ヨモツコトサカオノミコト)
速玉神(ハヤタマノカミ)
家都御子神(ケツミコノカミ)
大穴牟遅神(オオナムチノカミ)
天照皇大神(アマテラスオオミカミ)

御神使  ヤタガラス

由緒

七世紀から八世紀初めにかけて、
本市閖上は広ノ浦と呼ばれていた。
その広ノ浦に住む漁師、
治兵エ(冶兵衛)が、
早朝から海に出て漁に従事していた。
そのとき、海底に光る物を見、
網を降し引上げてみると、
藤のイカダにゆだねられた御神体を
得たのであった。
養老元年閏6月15日のことであると伝う。
自家に祀り朝な夕なの礼拝、
供物に怠りなかった。
年月経て養老3年を迎えた頃から、
夜毎に広ノ浦から西方の山なみに向って
異光が飛び、高山に留まることを見る。
治兵エをはじめ浦人達
大いに驚き且つ懼れをなして
神託を需める。
神託つとに喩旨あり
「羽黒飛龍ノ神なり」と。

治兵エは自家に祀ることは
不敬であることを悟り、
彼の異光が留まった処即ち
高舘山に宮社を建立して安置し、
羽黒飛龍大権現と称したのである。
後、保安4年(1123年)
名取の老女(巫女または司人か)と
称する者が、
紀州熊野三社を本村内(元高舘村)に
勧請するにあたり、
那智の分霊を当山に合祀して
熊野那智権現(或は那智山権現社)と
号した。
(宮城県神社庁)

保安4年(1123)
名取老女が
那智宮の分霊を合祀して
那智神社と改称したとされています。
主神は、熊野夫須美神を祭り、
旧暦6月10日が恒例祭で
昔は閖上浜まで浜降りの神事が行われ、
正月には「カラスゴ(午玉宝印)」を
氏子に配布していました。
近世は、伊達家の厚い崇敬を受けて、
明治時代になるまでは
別当寺物響寺の支配下にありました。
明治元年の太政官布による神仏分離で、
社殿に奉納されていた御正体である
懸仏などは
関係者によって密かに埋められたものが、
明治31年(1898)7月の
拝殿移築の際床下から再発見されました。
現在では、その懸仏・銅鏡41点が
国指定、
懸仏114点が県指定文化財となっています。

御神木は、4本、あります。

入り口に立つ、「山一」

「山一」から見下ろせば、
大イチョウ「乳の木」

参道にある樹齢千年をこえる
銀杏の木で、
枝の下から瘤がぶら下がり、
乳の形をしていることから、
乳の少ない人が祈ると
豊かに授かると云い、信仰が篤い。
仙台市原ノ町にある樹と
姉妹であるという。

高野槙

本来、東北には自生できない樹木で、
名取老女が、
この地に那智の御分霊を勧請した際、
遥々紀州から運び植えたものと
伝わっています。

高舘連理杉

社殿右側にある杉の木
「在天願作比翼鳥 在地願為連理枝」
(長恨歌より)
一つの枝が他の枝と連なって理
(木目が通じた様が吉兆とされ
「縁結び」「夫婦和合」の象徴として
信仰の対象となっています。

御本殿(2017年6月撮影)

随身

現在の御本殿 雨漏りがひどく、修復。

拝殿は入母屋造であり、春日造の御本殿の後ろには、羽黒飛龍神を高舘山へ遷座した漁師である治兵衛と、名取の地に熊野三社を勧請した名取老女を祀る石祠が置かれている。

明治初め元本社の末社春日神社、
同四十二年に村内に鎮座していた、
高舘、日吉、御田、薬師、八幡の
各社を合祀

名取老女の祠

鐘楼

那智の滝への参道

石碑群

飛瀧神社と、那智の滝

かなり、ボロボロで、
新築しなくてはならないほどです。
石灯籠のあった場所に、
以前、不動堂がありましたが、
今はありません。
東日本大震災で倒壊したと思います。


そばには、龍のような大蔦があります。
このあたりは、
うっそうとしていますので、
必ず、クマよけ鈴は、
身に着けてくださいね。

神門 
ここから、高舘山を徒歩で下ります。
111段。かなり急坂です。
車は、那智が丘ニュータウンからも
行けますし、
高舘山の麓にも駐車場があり、
山を登ってくることもできます。
ここからの仙台市、名取市、岩沼市の
風景が素晴らしいです!

天気が良ければ、
牡鹿半島突端まで、見えます。

仙台市若林区今泉の、
今泉清掃工場と、井戸浜の海岸

名取市。
そのそばに、名取川が流れています。

牡鹿半島の突端と網地島

手前が、仙台東道路、
奥が、塩竃ー相馬線

奥は、牡鹿半島、宮戸島

名取市

この高舘山から、太平洋は一望です。

御神体が見つかった廣浦(閖上)が神社の真正面に見えます。


母方祖母の実家、「山司」は、
山に司で、
山の上から、海から入ってくる
夷敵を見つける国の警備を
していたのではないか。
高舘山から容易に発見することが
できたのではないでしょうか。
もともと、違った名字で、
天皇の命により、その職を与えられ、
その際に、どんな役職に就いているか、
わかるように、
「山司」にしたのではないか、
とも考えます。

仙台東道路の、名取川にかかる名取橋。
下に、東北新幹線も走っています。

高舘山の麓

仙台空港

岩沼市と亘理町の間を流れる、阿武隈川

仙台市街地 仙台は扇状地です。

熊野那智神社の下に、
那智山紹樂寺観音堂

那智山紹樂寺は、奥州三十三観音 
第一番札所。
閖上浜から引きあげたとされる
十一面観音菩薩像が本尊で、
別名「高舘観音」と呼ばれています。
以前は、うっそうとしていましたが、
現在は、伐採して風通し良く、
建物保存には有難いことです。

熊野那智神社と観音堂には、
野良猫さんがいます。
宮司さんが、餌を与え、
住居も整備して、
そのまま活かしております。
静かに見守ってくださいね。

(市指定)記念物 史跡

 高舘城跡は、
高舘山(標高203m)の中腹から
山頂付近にかけて築城された
円郭式の山城で、
仙台平野から仙台湾を一望に
見渡せる場所に位置しています。
 高舘城の規模は、
東西400m、南北500mに亘って
土塁や平場の遺構が認められ、
中央の本丸の周りには、
北ノ丸・東ノ丸・南ノ丸・西ノ丸があり、
北から南にかけての3ヶ所の尾根には
小規模な平場があり、
一つは秀衡ヶ崎と呼ばれています。

この城跡は、
安元元年(1175)
藤原秀衡が館を築き、
文治5年(1185)
奥州合戦の折りは藤原勢が
同城にたて籠もり、
鎌倉勢を迎え撃ったと言われ、
その後、永禄年間(1558~1570)に
伊達種宗が一時居城し、
後に家臣の福田駿河守を城主として
置いたとされています。
 また、観応の擾乱(1351)で
多賀城をめぐる攻防のなかに
出てくる「羽黒城」・「名取要害」は
高舘城のことだと言われています。
このような歴史的背景を持つ高舘城は、
市内に現存する中世の城館跡のなかでも
典型的な山城として
大変重要な城跡となっています。

(名取市)

熊野那智神社が、
ここまで整備されましたのは、
現在の宮司さんのおかげです。
とても気さくな方です。

羽黒飛龍神 について

山形県鶴岡市、出羽三山

羽黒山山頂、出羽三山神社、三神合祭殿


目の前に、鏡池

東西38m南北28mの楕円形の
この御池は御本殿の御手洗池であり、
年間を通しほとんど水位が変わらず、
神秘な御池として古くより
多くの信仰をあつめ、
また羽黒信仰の中心でもあった。
古書に「羽黒神社」と書いて
「いけのみたま」と読ませており、
この池を神霊そのものと考え
篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、
古来より多くの人々により奉納された、
銅鏡が埋納されているので
鏡池という。


羽黒山の鏡池には、
龍神である九頭龍王が棲んでいるそうで、
羽黒神(いけのみたま)は、九頭龍大神。
池そのものが、御神体です。

また、羽黒九頭龍王は海神で、
龍宮に棲むとも伝えられています。
文永・弘安の蒙古襲来の時に、
羽黒九頭竜王の御加護によって
蒙古軍の船を全て撃沈したという
言い伝えがあるそうです

龍王といえば、
鶴岡市の海岸近くにある、
龍澤山 善寶寺。

平安時代の
天慶から天暦年間(938年 - 957年)頃、
天台宗の妙達によって草庵が結ばれ、
龍華寺と呼んだものを始まりとする。

鎌倉時代の延慶年間(1308年 - 1311年)、
總持寺二世峨山韶碩が
龍華寺跡で教化を垂れる。
室町時代の永享年間(1429年 - 1441年)、
韶碩の七世法孫、
曹洞宗の僧・太年浄椿が
その遺志を継ぎ、諸堂を復興し、
寺号を善寳寺と改めた。

姿を顕した二龍神
(龍宮龍道大龍王、戒道大龍女)が
寺号を授け、
寺内の貝喰池に
身を隠したという伝承
が残り、
龍神信仰の寺として
航海安全を祈願する海運関係者や
大漁を祈願する漁業関係者などから
全国的に信仰を集める。

龍王殿 国登録有形文化財

善寳寺開山太年浄椿禅師が
文安三年(1446年)創建と伝えられる。
現建物は天保四年(1833年)再建された。
當山守護両大龍王尊を祭祀すると共に
開山堂をも併せている。
亀甲葺と称する八棟造形式の銅板屋根は
海の波「うねり」を型どり、
又、軒組には
波に鯉、鯱、雲と草花といった彫り物が
多様に配された荘厳な建築。

貝喰池
鯉がたくさん棲んでおり、
人面魚は、この池の発祥です。

そのおかげで、
池が、このように澱みやすい。
大雨が降りますと、澄んできます。

御社の裏手には、
湧水がある。

わたしは、
善寶寺さんの龍王講に入講しております。
2016年に、
1150年で初の御開帳がございました。
その際、その御姿を拝観しまして、
感激し、
そのまま入講させていただきました。

かの有名な、斎藤一人さんも
訪れているという。

善寶寺の山門には、
韋駄天と毘沙門天の木像があります。
元は羽黒山で祀られていましたが、
明治の廃仏毀釈により、
善寳寺に逃れて安置されました。

3年前から、わたしの中では、
「九頭龍」のキーワードが出ており、

たまたま、秋保大滝で
声をかけられた女性が、
小田原城主の子孫で、
箱根神社、九頭龍神社を信仰していたとか、
その女性の父親が、福井県の九頭竜川で、
工事中、大ケガを負ったという。

伊勢神宮ツアーで出かけた、
奈良県宇陀市の龍鎮神社を管理している、
海神社もまた、九頭龍と関係していた。
京都の九頭龍神社の御札や
御守をいただいたり、
箱根の九頭龍神社の御守をいただいたり、
この熊野那智神社もまた、
羽黒飛龍神ー羽黒九頭龍王であったり。


仏教における九頭竜は
ヴァースキ(和修吉)である。
シェーシャ(Śeṣa)と
同一視されることもあり、
須弥山を守るとされる。
仏教とともに中国に伝わった際に、
ヴァースキは
八大竜王の和修吉竜王となり
九頭一神の龍となった。
これが日本に伝わり、
後に神仏習合されると、
九頭竜は仏教と神道を守る神となる。
八大竜王は密教の信仰であり、
現世利益を強く求める密教において
九頭竜は雨乞いをつかさどる神となった。
日本の九頭竜が
九頭竜権現と呼ばれる場合の本地仏は
弁才天ないし前述の和修吉竜王である。

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