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【宮城】多賀神社 宮城県名取市

多賀神社

祭神  伊弉諾尊 伊弉冉尊

天照大神 、速須佐男命、 応神天皇 、
 熊野加夫呂櫛御食奴神

式内社 陸奥國名取郡 多加神社


神門

神門の向かって右側、御神馬

多賀神社の創建は
景行天皇28年(98)に
日本武尊(景行天皇の皇子)が
東夷東征の際に勧請したと
伝えられています。

日本武尊は遠征に加え連戦が続き、
疲れからか?
当地でとうとう重病となりました。
そこで周辺の中では温暖な地に
柳の樹で祭壇を設けて
病気平癒の祈願すると、
不思議と念願成就し体が完治したと
伝えられています。
(この一帯を皇檀ヶ原と言う)
その後、この故事から
棚柳と呼ばれるようになり、
霊地には祠が設けられて
信仰の対象になりました。
(高柳という地名) 

「封内風土記」によると
雄略2年(458)に
東国巡行の際に祭禮を行った際、
圭田58束を寄進されたとに記され、
当時の名取郡に二社あったという
平安時代の延長5年(927)に
編纂された延喜式神名帳に
記載されている式内社である
多加神社とされていました。
多賀神社は
歴代領主からも崇敬庇護され
特に日本武尊縁の地である事から
病気平癒、延命長寿に
御利益があるとして
信仰されました。
古くから神仏習合し
「若宮八幡」とも呼ばれていましたが、
明治時代初頭に発令された
神仏分離令により仏教色が一掃され、
旧社号とである「多賀神社」に復し、
明治4年(1871)に郷社に列し、
明治40年(1907)に
幣帛供進社に指定されています。
境内には神社山門もあり
神仏混合の名残が見られます。
多賀神社拝殿は入母屋、銅板葺、平入、
桁行3間、正面1間向拝付。
本殿は一間社流造、銅板葺。
長床(神門)は切妻、鉄板葺、
四間一戸。
同じ由緒をもつ富沢の多賀神社と
明治22年(1889)に
どちらが式内社かという論争があり
富沢が式内社、
名取が社領地とされました。

延喜式に名取郡二座の内
多加神社とあるもの之なり、
社傳云、景行天皇二十八年春二月
日本武尊東夷征伐 の節勧請せる所にして、
其後雄略天皇のとき
圭田を奉じて神禮を行ひしといふ、
即ち惣國風土記残欠にいへ るが如く、
圭田五十八束二字田を奉り、
式祭を行へりとぞ、
明治四年十二月郷社に列せらる、
四十二年に村社 熊野神社、八幡神社二社、
速徳神社を合併す、
社殿は、本殿、拝殿、絵馬堂等を具備し、
境内九百七坪(官有地第 一種)外に
百二坪里道を境内に編入せらる。
(明治神社誌料より)

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