『軽井沢ジャーナル』 第二章 -1-


   第二章

 高月はレポート漫画がウェブに掲載されていることを斎藤さんに電話で伝え、そのついでに次のケープ・ブルームの定休日に火災現場となった貸別荘村を訪ねる約束を取り付けた。高月のパジェロミニはツードアで四人いると乗り降りが面倒なので、僕のハスラーで迎えに行くことにする。
 五月二五日、約束した時間にケープ・ブルームに到着すると、ちょうど真迫さんの運転する車が駐車場に入るところだった。ふたりが降りて来て挨拶を交わす。彼女たちに会うのは三度目だが、私服姿は初めてなのでちょっと新鮮だ。
 特に斎藤さんは店ではお団子にまとめている髪をほどいているので余計柔らかい印象になる。真迫さんのほうはジーンズだが、長いエプロンをしているわけじゃないので足のラインがとても綺麗に見えた。
「あの車、真迫さんのですか? フィガロですよね? 渋いなぁ」
「あれ、父のお下がりなんです。古いけどデザインが好きなので乗ってるんですが、四駆じゃないので冬になったら買い替えないとならないかもしれません」
「カッコいいのにもったいないな。スタッドレスに履き替えるだけじゃ駄目なのかな」
 高月に意見を求めてみる。
「急な坂道なんかは雪が積もると厳しいかもしれませんね。マニアックなファンのいる車だから手放すのは惜しいな」
 斎藤さんも、
「私名義の四駆をもう一台持てればいいんですけど、私もまだ免許取り立てで運転は殆ど美咲ちゃんに任せちゃってるし、私たちの財政で車二台は難しいんですよね」
 と、残念そうだ。
 そんな話をしながらいよいよ問題の場所に向けて出発した。僕はまだ軽井沢の地理に不案内なのでハンドルは高月が握る。そういうこともあろうかと、自動車保険はぬかりなく僕と高月のふたりが運転できるように契約してあるのだ。

 軽井沢は高原なので全体に標高が高いが、その中でも離山や押立山に代表されるような小高い山や丘が点在している。今走っているのは離山の北側に当たる部分で、古くからある別荘地の更に奥まったところだった。大部分は森林だが、そういう場所にも別荘はいくつも建っている。
「こういう斜面に建っている別荘って、資材を運ぶのも大変なんでしょうね」
 と真迫さんが呟く。入口は道に面していても、奥のバルコニーが清水の舞台のように崖に張り出しているものもあり、確かに大工さんは苦労しそうだ。
「家具を運び入れる引っ越し屋さんにも同情したくなります」
 とは斎藤さんの弁。まあ、こういうところに別荘を持つ人は割増料金が発生しても痛くも痒くもないのだろう。
 目指す貸別荘村は、そんな山の中のつづら折りの道を登った先にあった。ゲートはないが、「貸別荘・楡が丘コテージタウン」と書かれた看板が出ている。管理しているのは藤波エクシードだ。
 看板の近くにある駐車場と思われる空き地に車を停め、建物の屋根が見えている方向に小径を進む。まず手前に「管理棟」と看板のかかった建物と「洗濯室」と書かれた小屋があり、その奥にログハウス風の貸別荘が不規則に建っていた。建物はおよそ二十棟くらいあるようだが、敷地が広く樹木が多いので、隣り合っているコテージ同士のプライバシーは保たれている。それぞれの庭先には木製のベンチやテーブルも設えられていた。
 ここにも小川が流れており、左手には小さい池があってカルガモが数羽、岸辺に上がってくつろいでいるのが見える。昔ここで悲劇があったとはとても思えない、静かで気持ちのいい場所だった。

 まだハイシーズンではないので借りている人はいないようだったが、夏休みの頃にはここも埋まるのだろう。家族連れや若いグループがはしゃいでいる姿が目に見えるようだった。
「いいところ。夏の間こんなところに滞在できたら素敵でしょうね」
「多花子ちゃんったら。私たちも軽井沢に住んでるじゃないの。それに夏は稼ぎ時よ」
「そうだったわ」
 だが斎藤さんの気持ちもよくわかる。高月と一緒に豪邸を占拠している僕でさえ、ログハウスをひと夏借りて過ごしてみたいと思ってしまった。まだ軽井沢の真夏を体験してもいないのに。
「だけど、こんな風に貸別荘村になってしまっていては、火災現場がどこだったのかはわかりませんね」
 斎藤さんが残念そうに言う。高月もそれを受けて、
「そうなんです。火事のあった建物の庭には白樺の木が五本並んでいるところがあったんですが、それももうありません。ですから正確な場所は不明なんです」
「高月さんが小さいときとは様子が変わってしまっているんですね」
 それでも斎藤さんと真迫さんは池の畔まで進むと小さく手を合わせ、目を閉じて祈りを捧げた。僕らもそれに倣って黙祷する。
 先日遠慮しようと決めたように花は持ってきていなかったが、斎藤さんと高月の祈りがそれぞれの親御さんに届くといい。そう思いながら目を開けると、小さなモンシロチョウがひらひらと僕らの周りを舞っていた。
「もしかして、お父さんかな」
「きっとそうよ。多花子ちゃんが来てくれて喜んでいるのよ」
 うつむいた斎藤さんの肩を、真迫さんがそっと抱いた。
 いつもならこの手のセンチメンタルな話には冷ややかな反応をしがちな高月だったが、さすがに今日は黙っている。そして僕は思わずもらい泣きをしそうになりながら、ある種の強烈な既視感に囚われていた。なんだ? なぜこの風景に見覚えがあるんだ?
 コテージ村の奥は丘の斜面になっており、北側にそびえているはずの浅間山は見えなかった。目の前の池とカルガモ、そしてモンシロチョウ…そうか、蝶か。僕が家族旅行で軽井沢に来たとき、小学生だった僕はひたすら昆虫採集に明け暮れていた。本命はカブトムシやクワガタだったが、意に反して一番たくさん捕まえられたのが蝶だったのだ。
「ナナ、どうした?」
「いや、僕が小さいときに泊まったのはどの辺だったのかなって思ってさ。確かペンションだったんだけど」
「ペンションか。軽井沢は高速道路と新幹線の開通で、東京から『日帰りできる観光地』になってしまったからな。宿泊施設は昔に比べて激減してるんだ。今もまだあるかな」
「日帰りか。もったいないな。早朝が一番気持ちがいいのに」
「そう思うよ。滞在客のために夏は朝五時くらいから営業しているカフェもたくさんあるのにな」
「あ、実はうちもちょっと考えているんです。夏の間だけでも朝ご飯営業ができないかしらって。まだオープンしたばかりなので今年は無理かも知れませんけど、軌道に乗ったらやってみたいんです」
 と、斎藤さんが意欲的なことを言い出した。
「それはいいですね。人気の朝食カフェはまだ暗いうちから行列が出来てますよ。主な客層は別荘の人たちですが」
「そうみたいですね。せっかくいいそば粉が手に入る土地なんだし、そば粉のガレットとかお出ししたら若い女性のお客様に喜んでいただけるんじゃないかと思って研究中なんです。専門店もあるようですけど、中に入れるものを工夫すればオリジナリティも出せますし」
「ガレットってクレープみたいなヤツでしたっけ?」
 カフェ飯にはあまり詳しくないが、妹がいるのでそれなりには知っている。
「ええ。フランスでは軽食の定番なんですよ」
「でも、朝早くからお店を開けて、ディナーも、となったら多花子ちゃん倒れちゃうわよ」
「そうかな。夏に思いっきり働けるように人間も冬眠できればいいのにね」
 そんな斎藤さんの言葉に皆が笑い、ペンションの話はいつの間にか終わってしまった。僕の泊まった場所については先送りになった形だが、しんみりしたままでいるよりはずっといい。

    *

 ふたりをまた店の前まで送り、帰りがけに担当の伊藤さんが打ち合わせに来る日のランチの予約をお願いしてから僕らもいったん家に戻った。高月は自分の車に乗り換えて仕事に向かう。
 書斎でさっきの既視感とペンションについて考えていたら電話が鳴った。美緒からだ。
「お兄ちゃん、落雁と栗かのこありがとう。美味しかったぁ」
「あ、もう届いたんだ」
 落雁と栗かのこを買ったのはケープ・ブルームを最初に取材した日だったが、その場で配送を頼まなかったのでレポート漫画の完成後に自分でコンビニから送ったのだった。そう言えばもう着く頃だ。
「ちょうど良かった。おまえに聞きたいことがあったんだよ。昔、父さんの車で軽井沢に来たことがあったろ? そのとき泊まったのってどの辺だったか覚えてるか?」
「うーん。どの辺かなぁ。軽井沢の地理ってよくわからないから。でもネットで検索してみればいいんじゃないの?」
「検索?」
「うん。『ペンション・ステラ』で」
 …なんだって?
「ステラ? おまえ、宿の名前覚えてるのか? 小さかったのに?」
「お兄ちゃん覚えてないの? そっちのほうが不思議よ。オーナーさんの名前が星川さんって言って、『イタリア語で星のことをステラって言うんですよ』って教えてもらったじゃない」
 なんてことだ。そんな話、今の今まで忘れていた。そして、ステラだって? 星川さん……?
「あーーー」あの行方不明になった認知症のご老人じゃないか!
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。電話ありがとう。助かったよ」
 急いで電話を切ると、MacのSafariを立ち上げて検索ウインドウに「ペンション・ステラ 軽井沢」と入力する。
 一発で場所が出た。ここからそんなに遠くない。出てきた地図をiPhoneに転送し、ナビモードにして車を出した。
 十分ほど走るともう目的地だ。昔泊まったところがこんなに近くにあったなんて、と駐車場に車を停めてハタと気付いた。
 僕は馬鹿か。星川さんは『昔、自分の家があったところに帰ろうとして』徘徊していたのではないか。ペンション・ステラは移転していたのだ。つまり、僕が泊まったのはここではない。
 自分の間抜けさに呆れ果てながら改めて建物を眺めると、屋根の上に天文ドームが作られているのが見えた。もちろん昔の記憶にそんなものはない。
 今のことは高月には秘密にしておこうと決心し、すごすごと車を戻そうとしたらペンションの一階がカフェになっているのに気がついた。せっかく来たんだからお茶の一杯くらい飲んでいこうか。うんそうだ。僕はコーヒーを飲みにここに来たのだ。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
 木製のドアを開けて中に入ると、エプロンをかけた四十代くらいの女性がにこやかに迎えてくれる。わりと話しやすそうな人だぞ。
「はい」
「お好きなお席にどうぞ」
 カフェは、どうやら宿泊客用のレストランを兼ねているようだったが、今は客は僕ひとりだった。レジの横には例によって軽井沢ジャーナルが積んである。まだ僕の描いたレポート漫画が掲載される前の号だ。
 コーヒーを注文し、運んできてくれたさっきの女性に自己紹介を試みた。
「あの、実は僕、軽井沢ジャーナルの高月の友達で、最近こっちに引っ越してきた中道というものなんですが」
 顔の広い高月の名前を出させてもらうことにする。
「まあ! 高月さんの。先日はお世話になりました。うちの父がいなくなっちゃったときに、高月さんが居場所を言い当ててくれたんですよ」
 いいぞ。話が繋がった。ちょうどそこに厨房からひとりの老人が顔を出した。これが星川さんのご隠居か。
「お父さん。こちら、高月さんのお友だちですって。ほら、この間お父さんがバス停にいるんじゃないかって言ってくれた」
「バス停。そんなところに行ったかな」
 どうやら彼には徘徊していたときの記憶はないようだ。今は普通に会話が出来る程度にしっかりしているようだが、認知症は症状が治まっているときとそうでないときのムラがあると聞く。
「すぐに見つかって良かったですよね。そのときにこちらの名前を伺ったので、懐かしくなってちょっと来てみたんです。僕、昔、家族で泊まりに来たことがあったんですよ。もう二十年くらい前のことなんですが」
 …微妙に違う気もするが、自分の間抜けさを喧伝することもあるまい。
「まあ、そんなに前ですか。ありがとうございます。でも、その頃だとうち、もうこっちに来てたかしら。一度場所を替わってるんですよ」
「ええ。そう伺いました。多分僕が泊まったのは移転前だと思うんですが、以前はどちらにあったんですか?」
「鶴溜別荘地ってわかるかしら。離山の北側の。あそこよりもう少し上に上がった辺りだったんですよ」
 ああ、やはりそうだったのか。斎藤さんたちを連れて行ったコテージ村のあったところだ。つまり、高月のご両親と岬さんが亡くなったすぐ近くと言うことになる。だからあそこの風景に見覚えがあったのだろう。
「昔、あの辺りで火事がありましたよね? 僕らが泊まった翌年ですが」
「あらよくご存じね。古い別荘がいくつも焼けて、ずいぶん怖い思いをしたんですよ」
 ん? 古い別荘がいくつも?
「あのときはねぇ、ほら、今あそこコテージがいっぱい建ってるでしょ? あそこを再開発したがってたのが藤波さんだったから、一時は手放したがらない別荘を立ち退かせるために火をつけたんじゃないか、なんてひどい噂になっちゃって」
「藤波さんって藤波エクシードですね。そんな噂があったんですか」
「うちも近かったから、売ってくれないかって言われてたんですよ。広めの場所を確保したいから他に移ってくれれば便宜を図るって。だけどお父さんがその噂を聞いて嫌がっちゃって断ってたんですけど、そのあとで藤波さんとこも立派な貸別荘をやられちゃったでしょ。あそこの仕業っていうのは誤解だったってわかってね」
「ええと、ちょっと待って下さい。藤波エクシードの貸別荘が焼けたのは、今のコテージ村になってるところじゃないんですか?」
「違いますよぅ。ここですよ。ここが焼けて更地になったから、じゃあ買おうかって話になって移ってきたの。うちもちょうど、天文台を取り付けようって計画があってね。ほら、うちステラって名前でしょ? 予約の時によく聞かれたんですよ。お宅では天体観測ができるんですかって」
 ここ…ここだって? どういうことだ? 頭の整理が追いつかない。
「前の場所は山の中で、すぐ裏が斜面だったから空があんまり見えなくてね。あっちで天文台作っても見える空が限られちゃうから、だったらもっと見通しのいいところに移ろうってね。人が亡くなるような火事があった場所だから、藤波さんもちょっと売りにくかったみたいでかなり勉強して下さって、うちもどうせ建物を新しくするんだからしっかり地鎮祭とかやってお清めしてね。おかげさまで今でも営業できてるんですよ」

 高月は勘違いをしている。さっき行った場所は高月の両親と岬さんが亡くなったところじゃない。あそこは「不審火が何件かあった場所」だ。そして、今僕がいるこの場所こそが、藤波エクシードの貸別荘が焼けた場所ではないか。
 動揺したまま窓の外に目をやると、五本の立派な白樺の木が風に揺れて葉音をたてていた。

    *

 ペンション・ステラを出て中軽井沢図書館に向かった。利用カードを提示して新聞記事検索のできるパソコン席を借りる。長野県の地方新聞のデータベースに接続し、十九年前の火事に関する記事の一覧を呼び出した。
 その年の火事の記事は5件あった。そのうち4件は四月から六月にかけて無人の別荘が焼けたもので、死傷者は出ていない。最後の1件が八月の藤波エクシード所有の貸別荘で、焼け跡からは三名の遺体が発見され、少年が一名負傷したとある。(高月だ!)そして、どの火事の記事にも「軽井沢町大字長倉」と住所が記載されているが、番地までは記されていなかった。
 同じパソコンのブラウザで軽井沢の住所表記について書かれているページを探して読んでみた。それによると軽井沢の住所はかなり大まかな分類になっている。軽井沢駅周辺の「軽井沢東」、旧軽井沢銀座の周辺が「軽井沢」で、そこを取り囲む「大字軽井沢」、東に小さく「大字峠町」、そして中軽井沢駅周辺のごく一部が「中軽井沢」となり、そこを中心に南北に長く広大な「大字長倉」があって、ここが軽井沢町の面積のほぼ半分を占めている。南側は「大字発地」と「大字茂沢」、西に「大字追分」とあって、これが住所の全てだった。住民や別荘所有者は、別荘地の通称や別荘番号を併用してはいるが、郵便に使われる住所は、このいずれかの名称の後に○○○番地(長倉などは四桁にも及ぶ)と地番を付けるわけだが、火事を伝える新聞記事では、その番地が省略されていた。
 高月ももちろん昔の記事を検索しただろう。だが、この記事だけでは貸別荘の場所はわからない。高月が以前勤めていた新聞社でもデータベースが使えたろうが、全国紙なら地方紙の記事よりももっと小さい扱いだったはずだし、死傷者の出なかった不審火のほうは報道もされていなかったかもしれない。
 だから彼は軽井沢に移住してすぐに藤波エクシードに出向き、「昔火事があって、貸別荘があったところ」という訊き方をしたわけだが、教えてくれた人はおそらく、今のコテージ村のあった場所で不審火があったことを知っていて、そこのことだと思い込んだのだろう。かつて高月が滞在した貸別荘があった場所は、すでに藤波エクシードの管理ではなくなっているのだから。

 夜になって帰宅した高月に今日わかったことを報告した。僕の話を聞き終わった直後の高月は驚きのあまり顔を強ばらせていたが、やがてその勘違いが何を意味するのか気付いたようだ。
「ステラの庭には白樺の木があったんだな?」
「ああ。五本あった。太い幹の大きな木だったよ」
「十九年、経ってるんだもんな」
「ステラの人にその木のことは尋ねなかったけど、頼み込めば掘らせてくれるかもしれないぞ。もしかしたら、まだタイムカプセルが残っているかも」
「うん。それは今度頼んでみよう。掘り出したからって大したものは入れていないんだが… それより斎藤さんに謝らないといけないな。間違った場所をお父さんの亡くなったところだと言って案内してしまって」
「説明すればわかってくれるよ。また改めてお参りに行けばいい」
「ああ、それにしても、俺はこの三年間何をやってたんだ。こっちに来てまだひと月も経たない七生が火災現場を突きとめられたって言うのに、俺はずっと別の場所を現場だと思い込んで、その近くに昔いた人を捜し回っていた」
 こんな風に頭を抱える高月の姿を見るのは初めてかも知れない。ちょっと可愛いぞ。
「藤波エクシードにあっちですって教えられたんだから無理もないさ」
「だけどステラだろ? あのペンションに俺は何度も軽井沢ジャーナルを置きに行ってるんだ。星川さんとも面識があるし場所を移転したことも知っていたのに」
 落ち込む高月にコーヒーを淹れてやる。夕飯も今夜は僕が担当することにしよう。今の彼に作らせたら何が出てくるかわかったもんじゃない。
「一本くれないか」
 珍しく高月が煙草をねだる。彼は以前はヘビースモーカーだったが、最近はやめていたのでリビングでは僕も吸わないようにしていたのだが、ここは高月の家だ。好きにさせてやろう。
 灰皿と煙草を出してやり、高月が落ちつくのを待つ。
「それを吸ったら着替えてこいよ。飯を食ってこれからのことを考えよう」
 いつもとは立場が逆転してしまったようだ。僕はこんな風にこいつに面倒をかけているのか、と少々反省しながら台所に向かった。

 食事の後、高月がケープ・ブルームに電話を入れた。こういうことは早いほうがいい。
『はい。ケーブ・ブルームでございます』
「高月です。お忙しい時間にすみません。斎藤さんはいらっしゃいますか?」
『はい。ちょうどお客様が途切れたところです。少々お待ち下さいね』
『お電話代わりました。斎藤です』
「高月です。今朝はどうも… 実は、先ほどお連れしたコテージ村の件なんですが」
『はい』
「私の勘違いで、あそこは岬シェフと私の両親が亡くなった場所ではなかったことがわかりました。あそこはあの年の春先から続いていた不審火の現場で、藤波エクシードの貸別荘の火事があったところではなかったんです」
『え…』
「本当にすみませんでした。正しい場所はもうわかっていますので、ご都合のいいときに改めてお連れします。なんとお詫びをしたらいいか」
『いえ、そんな、お詫びだなんて。あそこ…ではなかったんですね』
「今、ペンションになっているところが火災現場でした。お連れする前にオーナーに話を通して、ちゃんとお参りできるようにしておきます。少々お時間をいただきますが、また改めて斎藤さんのご都合を伺いますので」
『わかりました。ありがとうございます』
「では、またご連絡差し上げます」
 高月の痛恨の詫び電話が終わった。今夜はこのままもう少し優しくしてやったほうが良さそうだ。

    *

 六月になった。先日の約束通り担当の伊藤女史が軽井沢まで来てくれたので、僕が駅まで車で迎えに行く。
「わ! やっぱり涼しいですね。それに空気がすごく爽やか!」
「東京とは気温がだいぶ違うよね。伊藤さんは軽井沢に来たことは?」
「学生の頃に大学の合宿で一度と、社会人になってから友達とアウトレットに来ました。でもあんまり観光とかはしたことないんですよ」
「旧三笠ホテルの建物とか素敵だよ。今度ご案内しなきゃね」
「ありがとうございます~。でもまずはお仕事の話をいたしましょう」
 仕事熱心な人だ。
 ランチの予約をしてあったので、そのままケープ・ブルームに向かった。店の横の駐車場にはすでに車が何台か停まっている。ちゃんと繁盛しているようで何よりだ。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
 真迫さんがにこやかに出迎えてくれる。
「先日は高月がすみませんでした」
「そのことはどうぞお気になさらずに、と斎藤が申しております。さあ、どうぞこちらへ」
 窓際の席に案内されてメニューをもらう。詰め物どっさりのパイが絶品だから、と伊藤女史にも勧めて、ランチコースを注文した。
「素敵なお店ですね。ここ、先生が描かれたレポート漫画に出てきたところですよね。中道先生、お店のかたとお親しいんですか?」
「うん。ちょっとしたご縁でね。どちらかと言えば僕の同居人の縁だけど」
「今のかた、『まさこ』さんってお読みするのかしら。珍しい苗字ですね」
 そう言えば真迫さんはギャルソンの制服に「真迫美咲」と書かれた名札を付けていた。名前がわかったほうがお客さんに親しく呼びかけてもらえるという配慮なのだろう。
「軽井沢って、こういう素敵なお店がいっぱいあるイメージです。いいわぁ」
 ランチコースは前菜とスープとメインディッシュ、デザートと飲み物、という軽めの構成だった。前菜は海なし県らしく川魚を使ったもので、新鮮な野菜がたっぷり添えられている。メインは肉だ。
「信州牛のグリルと天然キノコのソテーでございます」
「わあ。キノコ! そうですよね。長野はキノコの一大産地ですもんね。信州牛は知らなかった。美味しそう」
 無邪気にはしゃぐ伊藤女史を見て、やはりこの店に案内したのは正解だったと感じる。だが、突然聞こえてきた女性の声で店の空気が一瞬乱れた。

「迎えに来てくれるって約束したじゃないの!」
 ホールの、僕らの席とは反対側にあるテーブルで中年の女性客が声を荒げている。どうやら電話の相手に怒鳴っているようだ。こんな些細なことでも雰囲気というのは壊れてしまうものなのか。
「会議? そんなの前からわかってたんじゃないの? 知らないわよ。じゃあ私、どうやって駅まで行けばいいのよ」
「基子さん、いいわよ。タクシー呼べば済むことだし」
 連れの女性はさすがに周りの目が気になるようだ。だが、電話しているほうは収まらないらしい。
「だいたい貴方はいつもそうよ。適当な約束ばかりして。会議なんて部下に任せればいいじゃないの。誰のおかげで支社長になれたと思ってるの?」
 どうも穏やかじゃない。そこに真迫さんが飛んできた。
「藤波様、申し訳ございませんが、他にお客様もいらっしゃいますので、少々お声を落としていただければ…」
 女性は電話を切って真迫さんという新たなターゲットに照準を合わせる。
「煩いわね。貴女ウエイトレスのくせに生意気ね。しん…ぱく? それ何て読むの?」
「…まさこ、でございます」
「読みにくいわ。軽井沢は外国人観光客も多いんだから漢字の名札なんて不親切よ。アルファベットにしたら?」
 これはとんだ言いがかりだ。だが、藤波様と言ったか…?
「申し訳ございません。ご指摘ありがとうございます。名札は変更を検討させていただきます」
「もう帰るからタクシーを呼んで」
「かしこまりました。軽井沢駅まででよろしゅうございますか?」
「東京に帰るんだから当たり前でしょ」
 そんなこと分かるはずないではないか。だが、今の話を総合すると、どうやらこの女性は藤波エクシードの支社長夫人らしい。住まいは東京なのだろうか。その答えは連れの女性との会話ですぐに出た。
「基子さん、これからしばらく東京? 今月、日本橋で着物の展示会あるわよ」
「ああ、それ行くわ。こっちに引っ込んだままだとつまんないもの。軽井沢には東京が暑くなってから来ればいいし」
「ここに住みたいってご自分が仰ったんじゃないの」
「最初はね。だからお父さまに夫を軽井沢支社長にしてもらったのよ。だけど住んでみたら何にもなくて飽き飽き。冬は寒いし。だからいい季節にときどき遊びに来るくらいでちょうどいいのよ」
「ご主人、結局単身赴任みたいなものね。ご飯とかどうしてらっしゃるの?」
「適当にやってるんじゃない? こっちに仲の良い友達もいるみたいだし、軽井沢はレストランの数だけは多いんだから」
「そうね。お蕎麦屋さんも多いしね」
「ああ。うちの主人、お蕎麦はダメなのよ。めんどくさいわ」
「またそんなこと言って。少しは奥様らしいことしてあげないと可哀相よ」
「今度のハワイ出張には同行するのよ。ええと、十三日出発だったかしら。着物の展示会とは重なってないし、ワイキキのコンドミニアムの視察だって言うからアラモアナセンターが近いし」
「それ、ご自分が遊びたいだけじゃないの。基子さんったら、昔は彼に夢中だったのに」
「若いときは素敵だったのよ。クリスマスイブに人気のホテルをしっかり押さえてくれたり、予約の取りにくいレストランに連れて行ってくれたりしてね。私が食べたいって言ったら中華でもフレンチでもお寿司でも、すぐに有名店の席を用意してくれたのよ」
「なんかバブルが懐かしくなるような話ね」
「あの頃は景気良かったわよね。だから私もそういう人なら仕事もできるだろうと思っちゃったのよ。でも実際はそうでもなかったわ。なのに偉くしてもらったんだから、そのくらい我慢してもらわなきゃ」
「婿養子って大変ねぇ」
 連れの女性も笑っている。
 ご主人に深く同情した。勤め先の社長令嬢を娶って出世するのと引き替えに、さぞいろいろ犠牲にしたのだろう。

 それにしても客商売というのは大変な仕事だ。漫画家はライブで読者の反応を見ることはできないのは寂しいが、目の前で客にあれこれ言われるよりはマシだと思ってしまう。まあ、応対したのは真迫さんで、シェフである斎藤さんは嫌な思いはしないで済んでいるようだったが。

 タクシーが来て藤波支社長夫人と友達は帰って行き、僕らはコースの残りを楽しみながら一応打ち合わせもした。だが、僕の気持ちはやはりまだ新連載をスタートするまでには至っていない、と繰り返し説明し、どうにか伊藤女史にも納得して貰うことが出来た。
「残念です。でもホントに読者も待ってますし、先生さえ準備が整ったらいつでも声を掛けて下さいね」
「うん。ありがとう。わざわざ来てもらったのに成果がなくてごめんね」
「いいえ。お食事も美味しかったですし、先生が移住しようと思った町がどんなところか改めて見てみたかったのでいいんです」
 僕は人に恵まれている。彼女の気持ちに応えるためにも早く体調…というよりは心のほうを整えて仕事に復帰しなければ。だが、先に高月の問題が解決すれば一番いいのだが。

    *

 せっかく来たのだから少しは名所でも案内しようか、という僕の提案を断って、伊藤女史は東京に帰っていった。今日はまだ仕事が残っているらしい。軽井沢駅の車寄せで彼女を下ろしたあと、スーパーに寄って帰ろうと国道18号を走っていたら、見覚えのある人影が反対車線の舗道をゆっくりと歩いているのに気がついた。あれは星川さんのご隠居ではないか。
 どうも目的があって歩いているようには見えない。もしやまた徘徊しているのではないかと不安になり、後続車も対向車もいないことを確認してUターンした。ほどなくご隠居に追いついたので、ハザードランプを点けて車を路肩に停め、車外に出て声をかけてみる。こういうときは警戒させたり驚かしたりしてはいけないのだろうと、なるべく笑顔を心掛けた。
「こんにちは。先日ペンションのカフェでお目にかかった中道です」
「……」
 こちらを見るご隠居の反応が薄い。
「お散歩ですか? もしよかったらお家までお送りしましょうか」
「…誰だって?」
「高月の友達の中道です。ステラに戻られるんでしたらお乗せしますよ。どうぞ」
「ステラに…帰るところだが…」
「じゃあちょうど良かった。僕もあちらに向かうところだったんです。さあどうぞ」
 半ば強引にご隠居の肩に手を添え、助手席に乗ってもらうことに成功し、シートベルトをしっかりと留める。すぐに僕も運転席に戻って車を発進させた。
 おそらく今、彼の脳内ではステラが以前の場所にあった時代に戻っているのだろう。これは火事があった頃の話が聞けるかもしれない。
「星川さん。そう言えばご近所の火事、大丈夫でしたか?」
「火事? ああうちからは少し離れてたから燃え移ることはなかったけど、いつかうちもやられるんじゃないかとヒヤヒヤだったよ」
「放火、何軒も続いたんですよね」
「そう。ずっと使われていない別荘ばかりでね。使ってないのに持ち主が手放そうとしないところだったよ。でもさ、焼けて更地になると固定資産税が上がっちゃうだろ。だから持ち主も売る気になったみたいだね」
 固定資産税か。確か建物があるのとないのではかなりの差があったはずだ。所有者側にはそういう事情もあるのかと勉強になった。
 ご隠居は自分が『存在している時代の記憶』と話題が一致したのが良かったのか、かなり頭がハッキリしてきたようだ。
「だけどお宅はペンションですよね? 狙われていた古い別荘とは違うから、あまり不安に思わなくても良かったんじゃないですか?」
「そりゃそうなんだけどさ。だけどあの若造がうちの土地も欲しがってたからね」
「若造?」
「藤波エクシードの若造だよ。汚い手を使ってうちの商売の妨害もしやがったんだ。あいつなら別荘に火をつけるくらいやりかねないぞ。人んちを物欲しそうに見やがって」
 そういう噂があったことは星川さんの娘さんも言っていた。高月の両親が亡くなった貸別荘が藤波エクシードの所有だったことでその疑いは晴れたはずだが、ご隠居の頭の中には、当時土地を買い集めていた藤波エクシードの社員の悪い印象がくっきりと残っているらしい。しかし汚い手というのはどういうものだろう。
「どんな手を使われたんですか?」
「夏の繁忙期の予約だよ。団体の予約が入って喜んでたら、ギリギリになってキャンセルしてきやがった。本当ならキャンセル料で全額請求したいところだったが、携帯電話の番号しか残ってなくて何度かけても出ない。警察に相談したって門前払いだ。結局どこの誰だか分からずに金は取りそびれたんだよ」
「どこの誰だかわからないのに、それがその若造の仕業だって分かったんですか?」
「声だよ。声。絶対あいつの声だった。名前は適当に名乗ってたけどな」
 それはちょっと言いがかりではないだろうか。何の義理もないが、放火の疑いは晴れていることを思い出してもらうことにする。
「でも、藤波エクシードの貸別荘も焼けちゃいましたし…」
「ああ、そうだったな。それであの男も途方に暮れてたようだ」
「どうしてですか?」
「貸別荘で亡くなった人たちはあいつが世話していた取引先だったからだよ」
 なんだって? 藤波エクシードの若造というのはもしかして…
「それは、辻本さんという…」
「なんだ、よく知ってるな。そうだよ。東京の有名なレストランを軽井沢に出店してもらうんだと張り切ってたが、相手が死んじゃったらどうしようもない。だけどダメになった理由が放火じゃ、ヤツの責任じゃないからな。特にお咎めはなかったようだよ。その後東京の本社に移動になって出世したらしいけど…」
「らしいけど?」
「ああ、ええと、確か今は偉くなってまた戻ってきてるんだよ。あ、その道を左に入ってくれ」
 気がつけば、もうペンション・ステラはすぐそこだった。だが、重要な話が聞けたのではないかと思う。高月の両親の世話役だった辻本という男は、今、コテージ村になっている場所の土地の取りまとめもしていたのだ。ステラに移転を薦めたのもその男だったのだろう。だが「偉くなって戻ってきている」というのはどういうことだろう。高月が藤波エクシードに問い合わせたときには、辻本という社員はいないという話だったはずだが、それは星川さんの勘違いなのだろうか。

「まあ、お父さん、心配したんですよ」
 ステラに着いてご隠居を降ろすと、カフェのドアから娘さんが飛び出してきた。
「国道を歩いているのをお見かけしたのでお送りしました」
「ありがとうございます。中道さん、でしたよね? お父さん、勝手に出かけないでって言ってるじゃない」
「ちょっと散歩してただけだ」
 不機嫌そうにそう言ってご隠居は奥に引っ込んでしまった。
「中道さん、よろしかったらコーヒーでも」
「あ、ありがとうございます。でももう帰ろうと思ってますので、今日はご遠慮します」
「そうですか? またいつでも寄って下さいね。必ずお礼にご馳走させていただきますから」

 ステラを辞去し、スーパーで買い物をして今度こそ帰宅した。今日の出来事をどう高月に話そうか考えをまとめながらカレーを作っていたらジャガイモがすっかり煮崩れてしまった。まあ溶けてしまっても別に問題はない。飯も炊けたしサラダも作ったので、後は高月が帰ってくるのを待つだけだ。
 …なんだか僕は連日高月に話したいことが出来て、帰りを待ちわびているみたいだな。

骨折日記のときはたくさんのお見舞いサポートありがとうございました。 ブログからこちらに移行していこうと思っていますので、日常の雑文からMacやクリスタの話などを書いていきます。