『軽井沢ジャーナル』 第三章 -1-


   第三章

 六月二一日。吉村刑事が保管していた水鉄砲は昨日のうちに長野市にある県警の科捜研に送られて指紋などを採取されることになった。高月以外の指紋が出れば、藤波は任意で事情聴取を受けることになり、提出した指紋が水鉄砲のものと一致すれば容疑者として確定するだろう。
 これはあくまでも十九年前の火災に関することで、真迫さん殺害の容疑者になるのは次の段階だろうか。それでも捜査が進展したことには違いない。そして、ここから先は、もう僕らに出来ることは残っていなかった。
 だからと言って、大人しく家で報告を待っているわけにはいかない。警察が動き出していることをまだ知らない藤波がこれからどうするつもりなのかが気になる、と高月が言い出したからだ。

「どうするつもりって?」
「藤波は『岬シェフの娘』の殺害に失敗しているんだぞ。もう一度やろうと考える可能性がある。今思うとインタビューの時に人違いだと教えてしまったのは失敗だった。反省してるよ」
「そうか。黙っていれば被害者の名前を勘違いしたままでいてくれたかもしれないんだな」
「ああ。警察は斎藤さんの身辺警護まではしてくれないだろうから、俺たちが注意していたほうがいいかもしれない」
 それは確かにそうだ。藤波はまだ拘束されているわけではないんだし、この上斎藤さんの身にまで危険が及ぶようなことになったら、いくら後悔しても足りない。
 水鉄砲の件をまだ斎藤さんに報告していなかったので、その話をするついでに会うことになった。斎藤さんは店の再開準備をするためにケープ・ブルームにいると言うので、僕らもそちらに向かう。

 店の駐車場には真迫さんのお気に入りだったフィガロが停まっていた。昨日斎藤さんが引き取りに来て、今また彼女が使っているのだろう。前回来たときに物々しく張られていた規制線はすでに解かれ、警察官ももう残っていなかった。やっぱり不用心じゃないか。
 店の中に入ると、真迫さんが倒れていた床の上には花束と小さなワインの瓶が置かれているのが見えた。真迫さんが好きだった銘柄なのだろう。僕らもその近くに立って手を合わせる。

「水鉄砲、あったんですね」
 店のテーブルにコーヒーを出してもらい、ペンション・ステラの庭での吉村刑事との出来事を説明する。
「ええ。タイムカプセルに埋まったままではなかったのですが、数年前に吉村さんが掘り出して保管してくれていたんです」
 この展開に斎藤さんは驚いたようだ。僕だってまだびっくりしている。
「刑事さんはその水鉄砲が重要だということをご存じだったんですか?」
「はい。彼は貸別荘の放火は私の仕業ではないかと怪しんでいたようですが、まあ、その話はちょっと置いておきましょう。水鉄砲から指紋が検出されたら、それを藤波のものと照らし合わせて容疑が確定すると思います」
「藤波… その人が父と美咲ちゃんを殺したんですね。高月さんのご両親も」
 斎藤さんの表情が陰る。気持ちはわかる。父親と、生涯のパートナーと決めていた大切な人を奪われたのだ。とても赦せるものではないだろう。

「ところで、お店の再開の準備をされているとおっしゃってましたが、目処がついたんですか?」
 高月が尋ねた。
「目処というほどではないんですが、夏休みのシーズンになったらアルバイトの人に来てもらえそうなんです。軽井沢町内の飲食店で作っている組合みたいなものがあるんですけど、そこのみなさんが今回の事件に同情してくださって、働いてもいいという学生さんを紹介してくれることになりました」
「それはよかった。バイトさんがいれば斎藤さんが厨房に専念できますもんね」
 僕も嬉しくなってきた。
「ええ。今までより少し規模を…メニューの種類とか営業時間とか縮小するかもしれませんけど、無理してでも動かないと」
 動いていないとダメになってしまいそうだから…と、斎藤さんは口にこそ出さなかったが、目は確かにそう言っていた。
「それで…前にちょっとお話しした、ガレットを作ってみたんです。ランチプレートより品数が少なくてもお出しできそうなので、しばらく、それを中心にしたメニューにしてみようかと思って。もしよかったら、試食してみていただけませんか?」
「え? いいんですか?」
「こちらがお願いしているんですよ。召し上がって、ぜひご意見を聞かせてください」
 身辺警護に来たつもりが、逆にもてなされることになってしまった。でも、斎藤さんが働く気になっているのはとてもいい傾向なので、遠慮なくご馳走になることにする。

 ガレットは生ハムと卵を包んだものと、サーモンとクリームチーズを包んだものの二種類が用意された。ベビーリーフやクレソンを使ったサラダも添えられている。
「リンゴの季節になったら、デザートガレットも作ってみようと思っています。リンゴのバターソテーにカスタードクリームとか。あと、栗が出回るようになったらマロンペーストのも」
「それは美味しそうだなぁ。あ、でもこれもすごく美味しいですよ。ガレットってこんなに香ばしいものなんですね」
「そば粉ですから、小麦粉のクレープに比べるともっちり感は少ないですが、その分サクッとして甘みがないので中に入れたものの味が引き立ちますよね。軽井沢周辺で採れた地粉を扱っている業者さんがいらっしゃるんですが、今朝からやっと車が使えるようになったので、朝イチでそちらの営業所まで行っていろんなそば粉を分けてもらったんです。種類がいっぱいあって、お店中もう粉だらけ」
 斎藤さんは本当に料理が好きなのだろう。亡くなったお父さんの影響もあるだろうが、天職に就けるというのは幸せなことだ。
 僕はどうだろう。漫画家は僕の天職だろうか。今、描けずにいる僕は、その問いに胸を張って答えることができなかった。

    *

「ガレットだって?」
 高月と僕が軽井沢警察署の会議室で吉村刑事に斎藤さんの今の様子を話したとき、彼はちょっと驚いたようだった。こんなに早く彼女が立ち直るとは思っていなかったのだろう。
「ええ。真迫さんが亡くなったショックはまだ大きいでしょうが、少しずつ先のことを考えられるようになってきたようです。すぐに店を開けるところまでは行きませんが、新メニューのそば粉のクレープを試作してました。地粉をたくさん分けてもらっていろんな種類を試してるんですよ」
「それは何よりだね」
「水鉄砲の検査結果は出ましたか? 指紋とか」
「いや、まだ科捜研からの連絡は来ていないんだ。そんなに時間はかからないと思うが、まあ昨日の今日だしね。長野市のほうだとここよりも事件数が多いし、こっちを優先的にやってくれと頼めるわけじゃないからね」
「そうですか。ところで今日来たのは、斎藤さんのお店の周囲を少し警戒してほしいとお願いしようと思ったからです。藤波はまだ身柄を確保されていませんよね? 万が一、また斎藤さんを狙うようなことがあったら大変ですから」
「ああ。そうだな。一応藤波の動向には注視するように通達してあるが、店の周りも念入りにパトロールするように言っておこう。彼女の自宅のほうも注意したほうがいいね」
「そうしていただけると私たちも安心です」
「じゃあ、僕はもう少し捜査に出るから。君たちはゆっくりしていきなさい」
 そう言い残して吉村刑事は部屋を出て行った。警察署でゆっくりしていけと言われるのもどうかと思うが、ちょうどそこに森本さんがお茶を持ってきてくれたので、せっかくなのでいただくことにする。
「ありがとうございます。森本さんにお茶を煎れていただけるなんて光栄です」
「そんなこと言ってもお茶菓子は出ないわよ。だけど高月さん。いろいろ大変だったわね」
「はい。でもようやく昔のことがわかってきました」
「あなたがあの火事で助けられた男の子だって、私たち全然知らなかったわ。吉村さんったら教えてくれないんだもの」
「吉村さんは私のことを疑っていたそうですよ」
「あら酷い。だってあなたちっちゃかったんでしょ?」
「十一歳でした」
「それは辛かったわねぇ。当時吉村さんはまだ巡査だったかしら。あのころも生活安全・刑事課だったのよ。でも、そんな推理を披露していたら捜査本部で呆れられたかもしれないわね」
「でも、そのおかげで証拠品が保全されていたわけですし、吉村刑事には感謝しています。携帯番号の持ち主を調べていただいたのが大きな手がかりになりましたし」
「携帯番号?」
「ええ。藤波敦の」
「そんな申請したかしら。番号の持ち主を調べるには裁判所の令状が必要なのよ。そういう書類は必ず私に回ってくるはずだけど、また勝手に処理したのかしらね」
 高月が怪訝な表情になる。
「…吉村さん、右手の甲に火傷の痕がありますよね?」
「あら、まだ残ってる? 昔のあの火事のあと、署に戻ってきたとき私が応急手当したのよ。消防士さんに混じって消火活動を頑張ったのかしらね。でもそんなことすっかり忘れてたわ。そんなに目立つ痕になっていたかしら」
 少なくとも僕は気付かなかった。
「お茶、ご馳走様でした。そろそろ失礼します」
「ええ。またね」

 軽井沢警察署を出て、高月と僕は久しぶりに軽井沢ジャーナルの編集部に向かった。ケープ・ブルームの事件が起きたのは新しい号が出た直後だったので、高月もしばらくは仕事から外してもらえていたが、そろそろ働かないとまずいだろう。僕も一応次のレポート漫画のことがあるのでその話もしなければならない。

「もう、あなた達は勝手なことばかりして」
 コーヒーメーカーをセットしながら高月の話を聞いていた片平さんの反応は予想通りだった。
「すみませんでした。軽井沢ジャーナルの名前を使ったりして」
「そこじゃないわよ。相手は凶悪犯かもしれないのよ。危ないじゃないの」
 片平さんの気遣いに高月は少し戸惑って、それでも意地を張る。
「もう子どもじゃないですし…」
「子どもじゃないから危ないのよ。相手だって何かあったら本気で来るでしょう? 中道くんも一緒に行ったの?」
 僕の敬称が「さん」から「くん」になっている。悪戯がバレたも同然なのでしょうがない。
「はい。カメラマンのフリをしました」
「全く… 写真は撮ったの?」
「撮りました」
 僕はデータのコピーを入れたUSBメモリーと、プリントアウトした写真をショルダーバッグから出して渡す。
 高月が続けた。
「藤波が逮捕されれば、この写真はある意味スクープ写真となります。よろしければお使いください。必要でしたらインタビューの録音もあります」
 だが、片平さんは、
「うちの軽井沢ジャーナルはそういう新聞じゃないわ。発行も月に一度だし、そもそも社会面なんてないですからね。このデータは高月くんが前に勤めていた新聞社に使ってもらったほうがいいと思うわよ」
 と、男前なことを言った。確かに軽井沢ジャーナルに凄惨な事件の記事は相応しくないだろう。高月も納得したように、
「そうですね。もし需要があるようなら東京に送ります」
 と言って写真を引っ込めようとしたが、片平さんは
「しまう前にちょっと見せて」とプリントアウトを手に取る。
 しばらく写真を眺めた片平さんは、
「この人が藤波エクシードの軽井沢支社長なのね。だいたい想像通りの顔つきだわ」
 なんだか謎めいた発言だ。
「藤波をご存じなんですか?」
「会ったことはないわよ。でもこの土地で古くから商売している不動産関係者の間ではあまり評判が良くないみたいね。やりかたが強引な割に業績も大したことがないって言うし」
「そんな評判がありましたか」
「軽井沢には別荘地の管理会社と契約している警備会社があるでしょう? 個人で委託している人もいるし、何しろ別荘が一万五千軒以上あるからそれなりの商売になるらしいんだけど、最近、新しい警備会社が参入してきて、以前からのところを追い出しにかかってるらしいの」
「追い出しにって、そんなことができますか?」
「たまに無人の別荘のガラスが割られたり、不法侵入されたりすることがあるんだけど、そういう被害に遭った持ち主のところにご注進に行くみたいね。『お宅が契約している警備会社は怠慢ですよ』って。それで新しいところを紹介されるらしいわ。その糸を引いてるのが藤波エクシードだって」
 片平さんの話が続いているので、僕がコーヒーメーカーのところに行って三人分のコーヒーを注ぎながら言ってみた。
「さもありなんって話ですね。昔のやり口と同じマッチポンプだとすると、ガラスを割ったりしてるのも警備会社の社員ってことですか」
「どうなのかしら。高月くん、最近別荘を狙った細かい事件が増えてるとか、警察の人から聞いてない?」
「いえ、聞いたことはないです」
 僕がテーブルにコーヒーカップを置くと、片平さんがそれに気付いて慌てて言った。
「ごめんなさい。コーヒーのこと忘れていたわ」
「いえ、僕が飲みたかったので勝手にやらせてもらいました」
 そこで、ふと思いついたことを話してみる。
「このコーヒー豆、旧軽の『道』ってお店で買っているって言ってましたよね。僕も前に入ったことがあるんですが、あそこ、いいお店ですね」
「ええ。軽井沢でも老舗の喫茶店よ。丸山珈琲やミカド珈琲ほど有名じゃないけど、マスターがホントにコーヒー好きで愛好者も多いの」
「僕も一度入って気に入りました。それで、もしよければ、レポート漫画の第二弾をあの店にしてみたいんですが」
「あら、あそこを?」
「新規開店ではないですが、初めて軽井沢に来る観光客は老舗も新しいお店も同じようにお初なわけですし、地元の人にとっても新しい発見があるかな、と」
「それもいいかもしれないわね。店は知っているけど入ったことはないという人もいるだろうし、移住してきたばかりの目線で紹介するのは面白そうだわ」
「じゃあ、今度私も一緒に行って取材させてもらえるかどうか聞いてみましょう」
「ええ。お願いね」
 そのとき、高月のiPhoneが鳴った。
「斎藤さんだ」と言って応答する。
「高月です。どうしました? え?」
 何かあったのだろうか。
「すぐ行きます。今、軽井沢ジャーナルの編集部ですから十分ほどで行けると思います。あなたは念のため店の外に出ていてください。いえ、万が一芝居だったりすると危険ですからそのまま。いいですね?」
「どうした?」
「藤波がケープ・ブルームに現れた。だが、店で倒れて意識がないそうだ」
 藤波はやはり斎藤さんに危害を加えに来たのか! 警察のパトロールは何をやってる…と、腹が立ったが、倒れたというのはどういうことだろう。訳が分からないが、とにかく僕と高月は急いで店に駆けつけることにした。

 斎藤さんは高月に言われた通り、店の外に出て僕らを待っていた。
「大丈夫ですか?」
「はい。でもあの人… 写真でしか見ていないのでよくわかりませんが、たぶん藤波という人ですよね? 突然店に入ってきて私のほうに向かってきたと思ったら、急に顔を歪めて倒れたんです」
 店内に入ってみると、厨房の手前の床に男が倒れている。確かに藤波だった。呼吸が細く、顔が赤黒く腫れ上がっている。声をかけてみても意識はなかった。
「き…救急車を呼んだほうがいいですよね。私電話します」
「高月くん」
 吉村刑事が店に入ってきた。
「どうしたんだ? パトロールをしていたら君の車がここに停まるのが見えたから… こいつは…?」
「藤波です。突然倒れたそうです」
「この男が藤波か。心臓発作のようだな。マッサージをしたほうがいい。君、何か枕になるようなものはある?」
 吉村刑事にそう言われ、斎藤さんは手にしていた電話を置いてクッションを取りに行った。先に救急車を呼んだほうがいいんじゃないかと思ったので、僕が電話しようとすると、藤波の身体を仰向けにして服を緩めていた吉村刑事が「なんだこれは」と声を上げた。
 藤波の上着の内ポケットに折り畳み式のナイフが入っていた。
「もしかすると真迫さん殺害に使われた凶器かもしれない」
 吉村刑事はハンカチを使ってナイフを取り、
「ちょっと持っていて。直接触らないように」
 と僕に渡そうとする。仕方ないので受け取ってテーブルの上に置いた。
 119番は結局高月がかけた。だが、救急車が到着する前に吉村刑事は心臓マッサージの手を止めてしまう。
「亡くなったよ」
「え?」
 高月の両親と岬シェフを殺した犯人が死んだ? 貸別荘の火事から十九年経って、真迫さんというさらなる被害者を出してしまってからやっと見つけた犯人が?
「なぜだ… まだ逮捕もされていないのに。真相を語ることも、裁きを受けることもせずに死んだのか」
 高月の声は静かだったが、僕には叫び声のように聞こえた。納得など出来るはずがない。

 ようやく救急車が来て、救急隊員は藤波の様子を確認した。すでに瞳孔は開き、体温も下がり始めていたが、息を引き取ったばかりなので念のため病院に搬送するという。万が一の蘇生を期待しているのか、心電図を付けられ、気管挿管をされた状態で運ばれていった。
 この後は警察の仕事になる。検視で死因がわかるのか、それとも司法解剖になるのか。だがまず事情聴取だろう。斎藤さんはまたしても自分の店で亡くなった人について話をしなければならないという運命に見舞われてしまった。しかも、おそらく今回も狙われたのは彼女なのだ。

「あの男は急に店に入ってきたんですね?」
「はい… 私はここで新しいメニューの試作をしていて… そろそろ帰ろうかと思っていたところでした。突然お店のドアが開いて、あの人が入って来たんです」
「あれが藤波敦だとすぐにわかりましたか?」
「咄嗟にはわかりませんでした。入って来て私に何か言いながら近づいてきたんです。怖かったので何と言われたのかよく聞き取れませんでしたが、思わず厨房のほうに逃げ込みました」
「倒れた位置を見ると、あの男もそちらに入ろうとしていたようですね」
「だと思います。厨房に通用口があるのでそこから逃げようとしたんですが、突然倒れてしまってびっくりして… おそるおそる様子を見たら、この間高月さんたちに見せてもらった写真の…藤波という人かもしれないと思って、それで高月さんに電話したんです」
「それで高月くんと中道くんがここに来た、と」
「そうです。こういうことがあるかもしれないからパトロールを強化してくださいとお願いしたはずですが…」
「それは本当に申し訳ない。藤波エクシードの支社のビルから出たら行動確認するように部下に言ってあったんだが、何をやってたんだ。僕は店の周囲を流していたから君たちが来たのに気付いたけど。それにしてもこの男はなぜ急に倒れたんだろうな。斎藤さんに危害を加えようとして興奮状態だったために発作を起こしたんだろうか」
「あの… 意見を言ってもいいでしょうか」
 自信があるわけではなかったが、ちょっと思いついたことがあった。
「中道くん? どうぞ」
「もしかして、アレルギーじゃないかと思うんです。顔色が赤黒くて呼吸が苦しそうでしたし、浮腫もありました。今思うと皮膚が凸凹していたようなので蕁麻疹も出ていたのかもしれません。突然倒れたのは血圧が急に降下したからじゃないかと… これ、アナフィラキシーショックの症状ですよね」
「アナフィラキシーショック?」
「これだけ劇症のものだと、アレルゲンはひょっとすると蕎麦じゃないかと」
「蕎麦? ここはフレンチレストランだろう?」
「で…でも私、今、そば粉のガレットを試作中なんです」
「ガレット…さっき高月くんから聞いたな。だが、あの男が蕎麦アレルギーだったかどうかはご遺族に聞いてみないとわからないな」
「たぶん奥様がご存じだと思います。僕、この店で藤波夫人が友達と話しているのを聞きました。確か『うちの主人、お蕎麦ダメなのよ。めんどくさいわ』と言ってたんです。そのときは好き嫌いの話かと思ったんですが、めんどくさいというのは、もしかすると家で料理を作るときもそば粉の成分が混入しないように気を遣わなければならないという意味だったのかも知れません」
 高月も思い出したように、
「そうか。インタビューしたときも『長野もいいところだけど、僕には少々暮らしにくいところもある』と言っていた。あれはここが蕎麦の名産地だからかも」
「ああ、そう言えば僕にも蕎麦アレルギーの子がいる知り合いがいたな。東京に出たんだが、帰省するたびに駅に着いた途端、子どもの具合が悪くなるって聞いたことがあるよ」
 と、吉村刑事が言う。
「蕎麦屋の前を通るだけで症状が出るケースもあるそうです。蕎麦アレルギーを自覚していたのなら、もしかすると持ちものの中にアドレナリンの自己注射薬があるかもしれないですね」
 漫画の仕事…特にミステリーを描いているとこういう知識だけは豊富になってしまう。
「確認しよう」
 気になって斎藤さんのほうを見ると、やはり顔が青い。
「また… 私のせいで人が死んだんですね」
「そんな風に思ってはいけませんよ。あなたがそば粉を使って料理をしても悪いことなんか何もない。むしろあなたに危害を加える目的でここに来た藤波に天罰が下ったんです」
 吉村刑事が以前の高月と似たようなことを言って慰めた。だがあまり効果があるとは思えない。
「こちらも、まだいろいろ取り調べはありますが、あまりにショックが大きいようなら東京に帰られてはいかがですか? あちらにはお母さまがいらっしゃるんでしょう?」
「母はおりますが… でも…」
「真迫さんを殺した犯人は分かったわけですし、こんなことが起きてはお店もまだしばらくは開けられないでしょう。悪いことは言いません。お帰りなさい」
「ちょっと…考えてみます」
 その言いかたはどうなんだ。確かに店をすぐに再開するのは難しいかも知れないが、藤波が死んだことでもう危険はなくなったわけだし、今東京に戻っても彼女の心が癒されるとは思えない。
 だが、高月の意見は違うようだった。
「僕も…斎藤さんがしばらく東京にいるのは賛成です」
「そうだろう? 高月くんもこう言ってることだし、一度戻りなさい。それに、真迫さんの車をあちらのご両親に返さなければならないんじゃないのかね?」
「あ…はい。なるべく早く自分の車を買って、フィガロは美咲ちゃんのお父さまに返そうとは思っていましたが」
 そうか。あの車は斎藤さんのものじゃないから真迫さんのお宅に返さなければならないのか。同性のカップルだと相続は認めてもらえないから、真迫さんの遺したものはご遺族の許しがないと何一つ斎藤さんの元には残らないのだ。

「高月くんたちも、もう軽井沢にいる理由はなくなったんじゃないのか? 藤波が死んで、過去の事件はある意味解決したわけだし」
「いえ、まだしっかり真相が究明されたとは言えませんから。僕はこちらに家も買ってしまいましたし、七生も静養のためにここに越して来たんですからね。それに、私は軽井沢が好きなんです」
「辛いことがあった土地なのに?」
「悪いのは罪を犯した人間で、軽井沢ではありません」

骨折日記のときはたくさんのお見舞いサポートありがとうございました。 ブログからこちらに移行していこうと思っていますので、日常の雑文からMacやクリスタの話などを書いていきます。