『軽井沢ジャーナル』 第一章 -4-

    *

 軽井沢ジャーナルの編集部を出てハンドルを握る高月の顔は、まだ心なしか仏頂面だ。
「連れてくるんじゃなかった」
「そう言うなよ。僕はそんなに嫌じゃないよ。片平さんは仕事をちゃんと尊重してくれる人みたいだし、手が鈍るのは本当に心配していたんだ」
「ナナがいいなら俺はいいんだけどさ。だが無理はするなよ」
「わかってる。ありがとう」

 車は新幹線の高架をくぐって南側に出た。この辺り一帯は飲食店が集中していてグルメ通りと呼ばれる道もあるらしい。駅前でも商店街でもないのにレストランが多いというのも軽井沢ならではだろう。全てが「森の中の隠れ家」という趣である。
 その中に、この春にオープンしたばかりのカジュアルフレンチレストラン『ケープ・ブルーム』という店があった。今日は高月はここを取材することになっている。せっかく僕も一緒に来ているのだし、もしオーナーが了承してくれればレポート漫画の第一弾をここにしてもいい。
「こんにちは。お電話差し上げた軽井沢ジャーナルの高月です」
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。オーナーシェフの斎藤多花子と申します」
 出てきたのは意外にも僕らと同世代の小柄な女性だった。若いのに軽井沢に店を出すとは凄い。傍らにはもうひとり、やはり同い年くらいの女性が微笑んでいる。
「こちらはスタッフの真迫美咲さん。私の友人で、東京から一緒に引っ越してきました。彼女はホールを担当してくれることになっています」
「真迫です。よろしくお願いします」
 真迫さんはスリムで背の高いボーイッシュな人だった。斎藤さんはロングヘアを後ろでお団子にまとめてキャスケットタイプのコック帽を被っているが、それでもフェミニンな雰囲気の女性だということがわかる。真迫さんはショートカットで、ギャルソン風のベストと長いエプロンがよく似合っていた。女性なのでギャルソンではなくセルブーズと呼ぶらしい。
 タイプの違うふたりだが、どちらも美人で感じのいい女性だ。この店は流行るぞ…って、まだ料理も食べていないのに我ながら単純だと思う。
「では、まずお店の外観と内装の写真を撮らせていただきます。その後でお薦めの料理の写真が欲しいんですが、出していただけますか? 難しければメニューに載せている写真でもいいんですが」
「もちろんお出しします。写真を撮ったらぜひ召し上がって行ってください。まだオープンしたばかりなので、情報紙に載せていただけるのはすごくありがたいです」
 高月があちこちにカメラを向けている間に僕は斎藤さんの話を聞くことにする。
「実は僕、軽井沢ジャーナルにお店紹介のエッセイ漫画を描くことになったんです。まだ初回なのでご覧いただけるサンプルもないんですけど、もしよろしければ第一弾にここを描いてもいいでしょうか?」
「第一弾ですか? 光栄です。お店の記事だけじゃなくて漫画の形になっていればきっと多くのかたに見ていただけますよね?」
「そう…ですね」
 まだ載っていないのでそこは僕にはなんとも言えない。でも快諾してもらえたのは幸先がいいぞ。気をよくして最近持ち歩いているスケッチブックをショルダーバッグから取りだし、インタビューしながら鉛筆を動かすことにする。だが、斎藤さんは僕が就いたテーブルの前に立ったままだ。
「あの、良かったらお掛けになって話を聞かせてください」
 だが、彼女は微笑んで、
「ここの従業員であることが一目でわかる服装のまま、お客様のお席に座るわけには参りません」
 と言う。そういうものなのか。飲食店でのアルバイト経験がないので余所の店のことはわからないが、一流レストランではそうなのかもしれない。仕方ないので僕だけが座って話を続ける。
「斎藤さんはお若いですが、他のところでもお店をやっていらしたんですか?」
「都内のレストランで修業はしてきましたが自分の店は初めてです。ずっと夢見ていた軽井沢に出店できて、ちょっと興奮状態です」
 女性が興奮している姿はいいものだ。
「夢見ていたと言うと、やっぱり軽井沢が好きで?」
「ええ…でも単に好きというのともちょっと違うんです。実は、私の父もフレンチのシェフだったんですが、軽井沢に店を出す予定だったのに直前に亡くなりまして…それで、いつか私が父の夢を代わりに叶えたいと思っていたんです」
 健気な話ではないか。
「そのお話、漫画にしてもいいですか?」
「はい。嬉しいです」
 これはいいネタが拾えた。単なるお店紹介だけでなく、オーナーのバックボーンを少し入れるだけでも深みが出るだろう。斎藤さんは可愛らしい人なので絵にするのも楽しい。スケッチブックにはすでに彼女の似顔絵が出来上がっていた。鉛筆描きの簡単な線だが、我ながらよく似たんじゃないかと心の中で自画自賛する。話が一段落すると斎藤さんは厨房に入り、やがて先ほど紹介された真迫さんと一緒に料理を運んできた。
 さっそく高月がいろいろなアングルから写真を撮る。店は通りに面した壁がガラス張りで光が良く入り、特別な照明がなくても美味しそうな写真が撮れそうだった。
「こちらはランチプレートです。パンは普通のバゲットの他に、たっぷりのフィリングを詰めたパイもご用意しています。撮り終わったらどうぞ召し上がってみてください」
 ありがたくいただくことにする。メインは信州ポークのグリルだった。控えめな酸味のあるソースが食欲をそそる。新鮮な野菜をたっぷり使ったサラダには自家製のドレッシングがかかっていてとても美味しい。皿の上に豆と野菜の煮込み料理が入った器も乗っていて、横には小さいが手の込んだオードブル風の料理も添えられていた。
 フィリングの詰まったパイも美味しかった。中身はナッツやドライフルーツを甘く煮たもので、ほのかにハチミツの香りがする。
「これ、すごく美味しいです。普通のパンもいいけど、甘いパイもいいですね」
「お口に合ってなによりです」
 ふと見ると、高月がなんだか難しい顔をしている。
「どうかしたのか?」
「あ、いや…とても美味しいですね。ちょっと懐かしいような気持ちになってしまって」
「ありがとうございます。これ、父のオリジナルレシピなんです。どこかで似たものを召し上がったのかもしれませんね」
「そうなんですか」
 取材はつつがなく終わり、レポート漫画のラフができたら確認してもらう約束をして高月と僕は店を後にした。

「さっきはどうしたんだよ。料理、旨かったろ?」
「ああ、旨かった。でも、あのパイ…懐かしいと思ったのも本当なんだ。どこで食べたんだろう」
「お父さんのオリジナルだって言ってたな。斎藤さんのお父さん、軽井沢に店を出す予定だったけどその直前に亡くなったんだって。父親の夢を叶えた女性シェフって話はきっと読者に受けるんじゃないかな。彼女、美人だし」
 そう言いながらさっきの似顔絵を運転中の高月に見えるように広げた。いきなりの急ブレーキ。
「わわ」
「すまん。だが、それちょっと見せてくれ」
 車を路肩に停めて高月がスケッチブックを引ったくる。
「…そうか。ケープ・ブルームか…」
「え? 店の名前がどうかしたか?」
「ケープだ。岬じゃないか! ブルームのほうは多花子という名の中にある花と、もう一人の美咲さんの名前からだろう」
 美咲の「みさき」という音がケープで「咲く」というのがブルームか。でも斎藤さんのほうにはケープを表す意味なんか…
「この絵、岬シェフに似ている。さっき会ったときは気付かなかったが、こうやって似顔絵になると特徴が強調されるから…ああ、そうか。下から仰ぎ見て描いてあるからだ」
「岬さんって、高月のご両親と一緒に火事で亡くなった…?」
 確かに僕は座ったまま、立っている彼女の絵を描いた。高月はずっと写真を撮っていたので、長身の彼からは小柄な斎藤さんの顔は見下ろすことになる。料理を食べてからはパイの味に気を取られて顔どころではなかったのだろう。そして、彼が昔、貸別荘で一緒にいた岬さんというシェフは大人だったわけだから、当然彼の記憶にあるのは下から見上げた顔ということになる。
「ああ。岬さんには喘息持ちの娘がいたはずだ。彼女の亡くなったお父さんは軽井沢に店を出そうとしていたって言ってたんだな?」
「うん」
「きっと斎藤さんは岬さんの娘だ。おそらくお母さんが旧姓に戻ったか再婚したかで斎藤姓になったんだろう。あれは岬さんがよくおやつに作ってくれたパイと同じレシピだったんだ」

 一足飛びに結論を出すのは性急過ぎるような気もするが、味の記憶というものは案外正確だと聞いたことがある。高月の舌があのパイに反応したのならば斎藤さんが岬シェフの娘というのもまんざら見当違いではないのだろう。
「近いうちにまたあそこに行って彼女に聞いてみる」
「それがいいな。ラフができたら見てもらうことになってるから、そのときに確認するのがいいよ」

    *

 僕はすぐにでも帰ってレポート漫画に着手したかったが、高月は他の店の取材が残っているという。いったん家に送ってもらうのも申し訳ないのでそのまま同行した。次に向かったのは旧軽井沢銀座のロータリー近くにある土産物屋だった。
 今年の春に改装してカフェを併設したという店内には、軽井沢を始め、長野県内の有名なお土産の商品がぎっしりと並んでいる。そう言えば栗で有名な小布施も長野県なので、小布施にある老舗の和菓子も軽井沢のあちこちで買うことができた。確か栗落雁は美緒の好物だったはずだ。栗かのこと一緒に送ってやろうかな、だったら軽井沢のジャムやコーヒーも一緒に箱詰めして…などと考えながら店内を見ているうちに、高月はテキパキと写真を撮り、紹介文のOKをもらってひと仕事終えてしまった。
「さあ、行こうか」
「ちょっと待って、これ買っていく」
 栗落雁と栗かのこの箱を適当に掴んでレジに持っていき、支払をしているとき、外から割れた音のアナウンスが聞こえた。
「なんだあれ?」
「防災無線だ」
 音割れしてる上に反響も酷くて殆ど聞き取れない。それでは用をなさないではないかと高月に言おうとしたら、彼はiPhoneを出してメールを確認していた。
「防災無線の内容は軽井沢町の広報課からメール配信もされてるんだ」
「ハイテクなのかローテクなのかわからないな」
 住人全員がメールの登録をしているわけではないだろうから、まだ無線での放送も続けているのだろうが、それならもう少しスピーカーの性能を工夫すればいいのに、と高月に愚痴ったら、電話で放送内容を聞くことができるサービスも去年から始まっているらしい。やっぱり「聞こえない」という苦情が多かったのだろう。
「で、何だって?」
「町内のお年寄りが行方不明になっているらしい」
「え? 大変じゃないか」
「たぶんペンション・ステラのご隠居だ。認知症が進んでいてこのところ徘徊をくり返しているんだ」
 ご隠居まで知り合いなのか。
 旧軽井沢の通りに出ると、そこでスーツ姿の中年男性に声を掛けられた。
「高月くん、今の聞いた?」
「ええ。広報のメールも見ました。星川さんですか?」
「そうらしい。今月に入ってもう二度目だ。困ったもんだな」
 そう言いながら高月の横にいる僕に目をやる。
「あ、こちらが?」
「はい。中道です。七生、こちら、軽井沢警察署の吉村さん」
 ああ、この人が例の「生活安全・刑事課」の刑事さんか。
「初めまして。中道です」
「どうも。軽井沢にようこそ。高月くんにはいろいろお世話になってます」
 そう言って握手を求めてくる。小説やドラマの影響で目つきの鋭い強面の刑事を想像していたが、吉村さんは、どこかの優良企業の取締役と言われても頷いてしまいそうな柔らかい雰囲気の人だった。
「で、星川さんの行き先、心当たりないよね?」
「今知ったところなのでなんとも言えませんが、前回は確か『家に帰る』と言い張って自宅を出てしまったんですよね?」
「そう。星川さんのペンションは住居と一緒になっているが、昔、一度場所を移転してることは高月くんも知ってるよね? それで以前の記憶が甦って『ここは自分の家じゃない』と思い込んでしまうんだろう。元の場所も町内だからそんなに遠くはないんだが、認知症ってのはやっかいだな」
「だったら今回もどこかに帰ろうとしているのかも知れません。確か前のときは国道を歩いているところを発見されましたけど、そこはもう探したのかな」
「探したらしいよ。でも見つけられなかったって」
「だったらバス通りはどうでしょう。巡回バスの運行路は国道から外れた裏道も通ってますよね」
「バス?」
「以前ネットの記事で読んだことがあるんです。お年寄りは割と公共交通機関を利用する人が多くて、昔住んでいた場所に帰ろうとするときにバスに乗るケースがけっこうあるらしいんですよ。そこでドイツのある老人施設では、建物の前にダミーのバス停を設置して、そこで徘徊を食い止めてるんだとか」
「ダミーって、それはつまりそこにはバスは来ないってこと?」
「そうです。それで、そこでバスを待たせておいて、気が済んだ頃に『今日はもう終バスが出てしまったので戻りましょう』と言って連れ戻すんだそうです」
 その話なら僕も聞いたことがある。認知症患者は記憶が長く続かない人が多いので、しばらくバスを待っているうちに自分がどこかに行こうとしていたことも忘れてしまい、促されるままに施設に戻ってくれるらしい。なんとも気の毒な話ではあるが、そんな状態で知らない場所に迷いこんで危険な目に遭ったりするよりはずっといいだろう。
「もしかしたら、どこかのバス停にいるのかも」
「それはあるかもしれないな。ありがとう。探してみるよ」

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 スーパーで食材を買い込んで帰宅し、僕は自分の書斎の机に向かった。今日は高月が夕食を作る。食事当番など特に決めてはいなかったし、外食で済ませることも多かったが、気が向いたほうが作る、という緩いルールで回っていた。高月はひとり暮らしが長いので一通りの自炊はできたし、僕も元々何かを作るのが好きなので料理は苦にならない。とは言っても母が亡くなるまで同居していたし、妹もいたので台所に立つ機会はそれほど多くはなかったのだが。

「できたぞ」
 呼ばれて階下に降りるとパスタが茹で上がっていた。今夜はタラコスパゲッティらしい。
 食べながら、描き上がったばかりのラフをプリントアウトしたものを見せる。
「もう出来たのか。早いな」
「たった2ページだからね」
「いい感じじゃないか。これなら店のいい宣伝になるだろう」
「片平編集長、これでOK出してくれるかな」
「大喜びだと思うぞ」
 良かった。漫画を描くためのアプリケーションを起動したのも久しぶりだったけど、まださほど腕は鈍っていなかったようだ。スケッチブックにちょこちょこと絵を描いていたのが良かったらしい。これを斎藤さんと片平編集長に見てもらってゴーサインが出れば、すぐにペン入れに取りかかれるだろう。
 斎藤さんが岬シェフの娘ではないかという件も気になるので、明日にでもラフを持って店を訪ねることにする。彼女が本当に岬さんの娘だとしても、高月の両親と岬シェフが亡くなった事件の時には彼女も子どもで、しかも東京にいたわけだから、何か高月が求める手がかりがあるとは思いにくいが、彼女の話を聞きたいと願う彼の気持ちは痛いほど分かった。だからラフも超特急で描き上げたのだ。

 リビングで食後のコーヒーを飲んでいたら高月のiPhoneが鳴った。
「高月です。…ああ、見つかったんですね。それは良かった」
 さっきの行方不明になったというご隠居が見つかったのだろうか。
「やっぱりバス停でしたか。ああ、あそこは雪よけの屋根とベンチがありますもんね。巡回バスが終わってる時間で逆に良かったですね」
 電話を切った高月が、星川老人が見つかったと話してくれた。
「この辺のバス停には雪よけなんか付いてるのか」
「全部じゃないが、コンクリート製の丈夫な囲いと屋根があるところが多いよ。冬場にバスを待つのはちょっと命がけだからな」
 大げさな…いやでも軽井沢の冬はマイナス10度を軽く下回るとネットで見たので、命がけというのも比喩ではないのかもしれない。僕はまだ軽井沢の季節のほんの一部しか知らないのだから、腹をくくって冬を待つことにしよう。

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