『軽井沢ジャーナル』 第二章 -2-

    *

「辻本さんだって?」
 高月がカレーをスプーンで口に運ぶ手が止まった。
「そう。古い別荘の持ち主に交渉していたのも、ステラに移転を薦めたのも辻本さんだった」
「彼はコテージ村のほうにも関わっていたのか。まあ…営業職だからな」
「その辻本氏、星川さんのご隠居によると、出世して軽井沢に戻ってきてるらしいんだけど」
「おかしいな。藤波エクシードに辻本という人はいないと言われたんだが」
「そう言ってたよね。高月だってこっちに来て真っ先に話を聞きたかったのは辻本氏だろう?」
「ああ。彼は火が出たときに貸別荘にいたわけじゃないから特に何か知っているとは思えないが、それでも両親や岬さんの話を聞いてみたかったからね」
 そうなのだ。辻本氏は高月のご両親が亡くなったときに最後に接触していた「大人」なのだ。亡くなる前にどんな様子だったのか、子どもの目にはわからなかったことも話してもらえるかもしれないのだから、高月が会いたいと思うのは当然だろう。

「だが、声か…」
 高月の話が飛んだ。一瞬話の脈絡を見失いそうになったが、すぐに星川さんが言っていた「若造の仕業」の根拠についてだと思い至る。
「ああ、そう。星川さんのご隠居は、ペンションの予約をドタキャンしてきたのは辻本氏の声だったと思ってるみたいだった」
「その話、斎藤さんが岬さんの店からかけた電話の話と似てるな」
「あ… そうだね。そうか。なんか妙な既視感があると思ったのはそれか。声の話に既視感っていうのも変だけど…そんなことはどうでもいいか。うん。確かに似てる」
 そして、既視感はそれだけではなかった。
「なにを七生が動揺してるんだよ」
 別に動揺はしていない。ただ、ちょっと思いついたことがあってどう話せばいいか混乱しているだけだ。
「あのさ。今日ケープ・ブルームで担当さんと食事したんだけど、そのときに携帯で旦那さんと喧嘩している女性のお客さんがいたんだ。中年の」
「ああ?」
「で、その人はどうやら藤波エクシードの軽井沢支社長夫人なんだよ。連れの人と話しているのが聞こえた。藤波基子さんっていって、元々藤波エクシードの社長令嬢で、社員だった人を婿養子にして、こっちの支社長に据えたらしいんだ」
「婿養子」
「つまり、前の苗字とは変わってるってことだろ? 藤波エクシードの社員で、偉くなってこっちに戻ってきた…」
「辻本氏か…!」
 そうなのだ。藤波エクシードのカウンターの人だって、まさか「辻本さんは?」と聞かれて支社長のことだとは思いもしないだろう。
「藤波エクシード軽井沢支店の支社長に会ってみなければならないな」
 高月の口調は柔らかかったが、その目には強い光が宿っていた。

    *

 六月十三日。すでに関東甲信地方は梅雨入りしており、あいにくのお天気だったが、今日は軽井沢ジャーナルの最新号が刷り上がってくる日だ。町内の店には社員達が朝から総出で配ることになっていた。例のレポート漫画が掲載されている最初の号ということもあり、僕も反応が気になって高月に同行することにする。
 何か所か回って午前十一時を過ぎたとき、ケープ・ブルームにも軽井沢ジャーナルを届けようと連絡してみることにした。高月は運転中だったので僕が電話をかける。
「お待たせいたしました。ケープ・ブルームでございます」
「もしもし。中道です。…真迫さんですか?」
「あ。はい。斎藤にご用でしょうか? 申し訳ありませんが、今日は店をお休みにして斎藤は東京の実家に戻っております」
「あ。そうなんですか。ご実家に」
「実は昨夜、斎藤のお母さまが体調を崩したという連絡がありまして。戻ってみたらそれほど大変な状態ではなかったようで、夕方にはこちらに戻ってくると電話があったばかりなんです」
「大したことがなくて良かった。斎藤さんのお母さまはまだ東京にお住まいだったんですね。おひとりで?」
「ええ…多花子には兄弟がいませんから」
 斎藤さんはひとり娘なのか。なのに軽井沢で店を出すことにしてしまったらちょっと寂しいだろう。一緒に来ればいいのに…と、考えたところで、もしかするとお母さんは夫が亡くなった土地に移住するのは気が進まなかったのかもしれないと思い至った。
「お電話したのは軽井沢ジャーナルが刷り上がってきたのでお届けしたかったからなんです。もし良ければ斎藤さんがお留守でも真迫さんがいらっしゃるなら後で伺いますが」
「まあ。ありがとうございます。荷物がひとつ届くことになっているのと、ちょっとホールのレイアウトを見直したいと思っているので、多花子が戻る時間に駅に迎えに行く他は店でひとりでガタガタやってます」
「お手伝いが必要なら…」
「あ、いえ。大丈夫ですよ。お料理のサーブの動線とか考えながら、のんびりやってますから。新聞、持って来てくださるのが午後になるなら多花子が帰ってくる時間と合わせますか? 6時6分にこちらに着く新幹線に乗ると言ってましたから、迎えに行って戻るのが6時半くらいでしょうか」
「わかりました。そのくらいに伺います」
 そう約束をして電話を切った。

 蕎麦屋で昼休憩を取った以外はずっと軽井沢ジャーナルを置いて回った。行く先々でお茶を薦められたり高月が話しかけられたりするので思いの外時間がかかる。しかも、これまでなかった新連載の漫画を描いたのが僕だとわかると、それでまた引き止められるので、編集部に戻ったのは午後六時を回ってしまっていた。
 でも、軽井沢ジャーナルは今日でほぼ、契約している店には配り終わったようだ。編集部では遠方の定期購読者に発送する業務もあるそうだが、それは他のスタッフが担当しているので、今日はこれで上がらせてもらうことにする。これからケープ・ブルームに行かなければ。

 店の横の駐車場に車を停め、入口の前に立ったとき、僕は微妙な違和感を覚えた。もうじき日没で辺りが薄暗くなりかけていたのに店に灯りが点いていない。道に面した大きなガラス張りの窓の中が暗いのだ。真迫さんと斎藤さんが駅からまだ戻ってきていないのかと思ったが、客用駐車場の奥にあるスペースには真迫さんの古いフィガロが見えている。
「おかしいな」
「うん」
 店のドアに触れようとして高月に止められた。
「念のためだ」
 ハンカチを出して手を包んでドアノブを引く。ドアはスッと開いた。
「真迫さん?」
 声をかけながら店内に歩を進める。ホールの手前のレジカウンターの前で高月は急に足を止め、搾り出すような声で言った。
「あそこに…」
 ホールの床の上に、ショートカットの頭頂部をこちらに向けて仰向けに倒れている女性の姿があった。
「真迫さん!?」
 思わず駆け寄ろうとしたが、彼女の身体の下にはどす黒い血溜まりが出来ている。足がすくんだ。
 高月がそっと近寄って彼女の顔を確かめ、手首に触れる。
「ダメだ…」
「そんな…救急車を…」
「手遅れだ。脈がもうない。警察を呼ぼう」
 高月がiPhoneを取り出す。
 真迫さんが亡くなった? 斎藤さんと一緒に店をやるために軽井沢に来たばかりなのに? 賢くて勇敢で、でもいつも控えめに斎藤さんの横に寄り添っていた彼女が…?
 そのとき店の電話が鳴った。ガランとした店内に響く呼び出し音を聞いて僕は飛び上がってしまった。高月が素早くレジカウンターの電話を見る。
「ディスプレイに『多花子携帯』と出てる。斎藤さんからだ。出るぞ」
 こういうときにはなるべく物に触ってはいけないと知ってはいたが、彼女からなら出たほうがいいだろう。
「もしもし。斎藤さんですね? 高月です」
『…あれ? 高月さん? どうしてお店に? 駅で待っていても美咲ちゃんが迎えに来ないし、携帯も出ないんですが、そこに彼女いませんか?』
 今起きている出来事を電話で伝えるのはとてつもなく辛い仕事だが、高月はやってのけた。
「斎藤さん。落ちついて聞いてください。店で真迫さんが亡くなっています」
『…え?』

 軽井沢駅からタクシーを飛ばし、斎藤さんが店に到着した。ほぼ同時に軽井沢警察署から吉村刑事もやってくる。
「通報してくれたの高月くんだって? どうしたんだ」
「高月さん! 美咲ちゃんは…」
 みんなが納得するような説明が出来ればどんなにいいだろう。だが、今の時点では何も分からない。ただ、真迫さんが店の床に倒れ、血溜まりの様子からおそらく背中側に怪我をしていて、彼女はもう短い人生を終えてしまったということだけだった。
 真迫さんの遺体に取りすがろうとした斎藤さんを、高月がそっと押し留める。
「お気持ちお察しします。でも、まだ警察が調べることがあるので、触れないであげてください」
「美咲ちゃん…ああ…」
 ふと、真迫さんの胸についた名札が目に留まった。漢字の「真迫」ではなく、アルファベットで「Masako Misaki」と書かれている。
「名札…。アルファベット表記にしたんですね」
 こんなときに僕はなぜそんな呑気な話をしているのか。でも、何か声を出さずにはいられなかった。重苦しい思いは同じだったのか、高月が会話を引き継ぐ。
「この間七生が聞いた、藤波夫人のクレームで作り直したのかな?」
「そうです。名札、今日美咲ちゃんが受け取ってくれることになっていたんです。それでお店にいてもらって私が東京に…。私が一緒にいたらこんなことには…」
「斎藤さんのせいじゃありません。そんなこと考えるものじゃない」
「でも…でも」
 この話題を振った自分を殴りたい。

    *

 斎藤さんが店の隅のテーブル席で泣いている。もう声を上げる力も残っていないのだろう。ただただ、拭いきれない涙が指の間から流れ続けていた。僕にはもう貸してあげるハンカチも残っていない。全て彼女の涙を吸って役に立たなくなってしまっていた。

 真迫さんの遺体は先ほど運び出され、床にはドラマなどでよく見るように、白い紐で人の形が作られていた。本当にああするんだ…。血溜まりはまだそのままになっている。作業をする警察官の邪魔にならないように僕らは店の隅に固まっていたが、高月は何かを睨みつけるようにその作業を見守っていた。ご両親が亡くなったときのことを思い出しているのだろうか。

 吉村刑事がどこかに電話をしている。おそらく応援を呼ぶのだろう。殺人事件なんて滅多に発生しないという軽井沢での出来事だから、長野県警からも刑事が来て捜査本部が立つのだろう。
 長いことミステリー漫画を描いてきたので、殺人現場のシーンも何度も絵にしてきたはずだったが、想像するのと実際に経験するのとではまるで違う。何よりも、たった今喪われた命の…真迫さんの無念さを思うと、その重さに押しつぶされるようだった。

 しばらくすると吉村刑事が「話を聞かせてください」と、僕らのいるテーブルのそばにやってきた。
「発見したのは高月くんと中道さんで間違いないですね?」
「はい。今日は軽井沢ジャーナルの新しい号を持って行くと真迫さんと電話で約束しました。夕方になって七生と一緒に店に着いてみたら、中に灯りがついていないのに駐車場に真迫さんのフィガロがあるのに気付いたんです」
 僕もそれに続けて答える。
「真迫さんは六時過ぎに駅まで斎藤さんを迎えに行くことになっていたので、もう戻っているかどうか気にして駐車場を見たんですよ。なのに車があって店が暗いのはどういう訳だろう…と」
「なるほど」
「それで、注意しながら店に入りました。ドアノブにもハンカチを被せて触らないようにしています」
「そのようだね。入口のドアからは誰の指紋も出なかったようだよ」
「つまり、犯人が拭った…ということですね」
「そうなるね。店の灯りが点いていなかったということは、君たちが電話をしてから薄暗くなるまでの間に犯行が行われていたことになるか。解剖してみないとわからないが、店は休みだから客も来ていないし、犯行時刻を細かく絞るのは難しいかも知れないな」
「宅配便の…」
「ん?」
「今日は新しく作り直した名札が届くことになっていたそうです。それはさっき真迫さんの胸に付けられていました。そうですね? 斎藤さん」
「はい。私の分の名札もあそこに…」
 斎藤さんが指さしたカウンターの上には、アルファベットで「Saitoh Takako」と書かれた名札が置かれていた。
「配達した宅配業者に連絡を取れ」
 吉村刑事が部下に命じる。
 後の報告によると、配達員が荷物を届けたのは十五時半頃だったようだ。そのときまでは真迫さんはちゃんと生きていたことになる。もちろんそれは配達員が犯人ではなかった場合だが。

 吉村刑事は斎藤さんにも話を聞いたが、覚悟していたよりは早く解放された。彼女の心情と体調を慮ってくれたのかもしれない。それでももう日付けが変わってしまいそうだ。
「どうされます? ご実家に戻られますか? それともこのまま軽井沢におられますか?」
「…店はしばらく休むことになるでしょうけど、美咲ちゃんを殺した犯人が見つかるまではここにいます」
 斎藤さんの強い決意が見える。そう。なんとしても犯人を見つけてもらいたい。そして相応の償いをさせなければ。
「高月くんたちも帰っていいですよ。また話を聞かせてもらうことになるだろうけど」
「はい。ところで、ちょっとお話があるんですが」
「なに?」
「今回の事件と関係があるかどうかはわかりませんが、ひとつ調べていただきたい電話番号があるんです」
「電話番号?」
 高月が斎藤さんのお父さんの岬シェフの住所録に『常習犯』という名前で電話番号が登録されていたことを吉村刑事に話した。
「ご承知のように僕の両親と斎藤さんのお父さまは、十九年前の火事で軽井沢で亡くなりました。事件の真相はまだわかっていません。だから私たちは昔のことならどんな小さなことでも確認したかったんです。それでその番号にこの店から電話をしてみることになりました。電話を掛けたのは真迫さんで、店名も名乗っています。ですから、もしかして、その番号の持ち主がここに来た可能性もあるのではないか、と」
「電話には誰か出たんだね?」
 横で聞いていた斎藤さんが答える。
「男の人が出ました。その声は、昔私が聞いたことのある声と同じだったんです。小さい頃にかけてみたときの声と…」
「うーん。ちょっとよくわからない話だけど、一応番号は調べてみるよ。何番だって?」
 高月が自分の携帯に登録してあった番号を吉村刑事に見せてメモをとってもらう。真迫さんの死と引き替えに番号の持ち主がわかることになるなんてとてつもなく割に合わない話ではあるが、せめてそれが何かの手がかりになってもらいたい。

 店の駐車場に停めてある真迫さんのフィガロはまだ動かさないでほしいと警察に言われたので、斎藤さんは僕らが送っていくことになった。だが、彼女をこのままひとりにするのはあまりにも不安だ。高月も同じ思いだったようだ。
「男所帯ですが、わりと広いので、もしよかったら落ちつくまでの間、うちに来ませんか?」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。美咲ちゃんの実家に連絡もしなければなりませんし」
 それはさぞ辛い役目だろう。
「私たち…つき合っていたんです」
 え?
「私が父と同じ仕事を目指したとき、父の元で長い間ホールを担当してくれていた人に相談しました。そうしたら、その人が今働いているお店で私が修行できるように取りはからってくれて…美咲ちゃんとはそこで知り合ったんです」
「ホールの担当って単なる店の従業員というよりは、レストランの顔なんですよね。シェフは普通は厨房にいるので、お客様を直接おもてなしするのはホール係ですから。お料理の説明もしますし、ソムリエの資格を持っている人も多いんです。ですから父にとってその人の存在はとても大切なものでした。そして私にとっての美咲ちゃんも…」
 きっと、漫画家にとってのチーフアシスタントのようなものなのだろう。その人の名前が表に出ることは決してないが、その仕事は漫画家やシェフの仕事を左右するほどの影響力がある。
「私たちのことは…私の母にも、美咲ちゃんのご両親にも反対されましたけど、お互い離れられなくて。だから、今回の件をお伝えしたらきっとお叱りを受けますね。私なんかと一緒に軽井沢に来たりしなければこんなことにはならなかったでしょうから」
「そうでしたか。お似合いのカップルだったのに」
「そう思っていただけますか?」
「心からそう思います。だけど、さっきあなたが『東京に行ってなければ』と仰ったときにも言いましたけど、『あのときああしていれば』とか『私が関わらなければ』などと考えてはいけません。そんなことで結果は変わらない。悪いのはあくまでも犯人で、斎藤さんでも真迫さんでもないんです」
 高月もおそらく昔の事件を何度も何度もシミュレーションしたのだろう。どうすれば両親が死なずに済むのか、どう動いていれば助けることができたのか、と。
 僕もそうだ。なぜもっと早く母の病に気付いてやれなかったのか、早期のうちに治療を始めていれば助かったのではないか、と悔やむ日が続いた。
 起きてしまったことの結果は変わらない。できることは、これからの未来をどうするかだ。だが、頭では分かっていても気持ちは違う。これから長い間、斎藤さんは悲しみと後悔と怒りの中で苦しむことになるのだろう。

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野間美由紀

ミステリ専門の少女漫画家です。
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