ネット時代における〈マスコミ依存症〉について

先日、コンビニエンスストアでコーヒー購入のセルフシステムを悪用した男性が逮捕されるという事件がありました。レジで100円支払って150円のカフェラテをカップに注いだことが窃盗にあたるとして逮捕されたのです。いくつかの報道番組や新聞でそのニュースは報じられました。

常習の疑いがあるとはいえコンビニで50円ちょろまかすくらいの微罪でいきなりお縄を頂戴とは何だか世知辛い警察国家になってしまったものだなぁ、というのが私の率直な感想です。

さらに私が驚いたのは、ネット上では批判の矛先が警察だけでなく、そのニュースを伝えた報道機関にも向かっている論評が多いことでした。
もっと悪いことをやっても捕まっていない人間がたくさんいるのに、警察のやっていることはバランスを欠いているのではないか、そのような警察の恣意的な行為に対しては捜査情報の垂れ流しにとどまらずに批判的な論評をも加えるべきだ、というわけです。

警察に対する不信感は上にも記したように私も共有しますが、しかしそれがただちにマスコミ批判にまでつながる論調には違和感を禁じえません。

ある出来事に対して批判が必要だと思うのなら、そのように思った人が率先して批判すればよろしいのではないか。どうしてそれを他人にまで求めるのでしょう。私にはわかりません。マスコミを批判する手間とエネルギーをそのまま目一杯に警察批判に振り向ければよいのではないですか。その意見に説得力があれば、マスコミに頼らずともおのずと拡散されていくでしょう。反響が大きければ逆にマスコミが拾いあげて記事や番組にしてくれることも日常的に生じています。

なるほど、現代ではネット上で新聞やテレビ、雑誌など在来のマスコミを批判するのは、友達やフォロワーから最も同意の得やすい「鉄板ネタ」の一つになっています。たいていのマスコミ批判にはコンスタントに「いいね!」が寄せられる。かくいう私もその種の投稿をすることがよくありますから自戒をこめつつ言うのですが、今回の事件に関する報道への批判や注文とは一線を画したいと思います。

そもそもマスコミはまず事実をありのままに伝えるのが第一の仕事。あらゆる議論はそこから始まります。第一報の段階で、事実をきちんと伝えることを期待されているマスコミが主観的な判断をまじえるのは、むしろ議論を混乱させる可能性すらあります。

何でもかんでもマスコミに仕事を押しつけようとするのは「マスコミ依存症」ともいうべき態度で、マスコミの「情報垂れ流し」よりもむしろそちらの方が病理的ではないかと私は考えます。

インターネットの普及により在来のマスメディアの相対的権威低下が叫ばれて久しいのですが、その一方でかような「マスコミ依存症」が顕在化しているのは一見すると不思議な現象のようにも感じられます。日頃マスコミを批判している割にはマスコミに対して依存的な人が少なくないのは何故でしょうか。

逆に考えればいいのかもしれません。マスコミに依存しているからこそ、日常的にあれこれと非難がましいことを言わずにはおれないのだろう、と。ちなみに私自身の認識をいえば、依然として新聞やテレビなど在来メディアの役割は重要だと考えています。同時に、読者や視聴者は政治空間においては「主権者」であることを忘れてはいけないことも肝に銘じたいと思います。

主権者としての自覚を放棄して他者にあれこれと注文ばかりしている国民が跋扈する状況を映画監督の想田和弘は「消費者民主主義」と名づけて厳しく批判しています。そうです。みだりに他者に期待するのはやめて、言いたいことがあればまずはみずから発信していくべきではないか。
あたりまえの結論で恐縮です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?