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外来文化を取り入れる過激な知識人だった!?〜『聖徳太子』

◆東野治之著『聖徳太子 ほんとうの姿を求めて』
出版社:岩波書店
発売時期:2017年4月

聖徳太子といえば日本人にはおなじみの歴史上の人物です。ところが、昨今、日本史の教科書での扱いをめぐって政治家が容喙するなど、その評価に関する論争は政治的な色合いをも帯びるようになってきました。

「聖徳太子の特異な点は、その没後、歴史的な事実から離れ、人物像が極めて伝説的に変貌していったことです」と東野治之はいいます。太子に関する歴史論争はそれこそ歴史的に繰り返されてきたのです。本書はそのような中で、歴史学の最新の研究成果を参照しつつ太子の「ほんとうの姿」に迫ろうとするものです。

太子は政治家としてどれほどの働きをしたのでしょうか。基本的には蘇我馬子と共同統治を行なっていたとみられています。単独の業績としては、17条憲法の作成と仏典の講義と注釈を行なったことが挙げられます。17条憲法は、もちろん近代の憲法とは違って公権力を縛るようなものではなく、朝廷に仕える人々を対象に心得を示したものでした。そうした点から、政治家として中央集権的な政治を目指し、ある程度主導権を発揮していたと推察されます。

太子を語る場合、さらに重要なこととして日本仏教の始祖といわれている点にあります。たしかにその仏教理解は当時としては革新性をもっていたと東野は指摘します。

太子の仏教は徹底した大乗仏教という点にありました。大乗仏教とは「一個人の悟りを求めるのではなく、生きとし生けるもの全体の救済を目標とする考え方」です。仏教によって社会を文明化し導こうという気運が盛り上がっていた当時とすれば、時代にフィットした考え方だったといえるでしょう。

大乗仏教を信仰の基本の根本に据える姿勢は、これ以後、朝廷の仏教政策のバックボーンとなりましたから、太子が日本仏教の祖と仰がれ続けたのも「至極当然」と東野は評価しています。
行動的ではないが、頭は冴え、自分のポリシーをもって外来文化を取り入れる。その意味では「過激な知識人」というのが東野の抱いている太子像です。

以上のような太子像をめぐっては、既述したようにその後の歴史において、前提となる史実の認定をふくめて様々な評価の変遷をたどってきました。江戸時代にはその仏教的教養が忌み嫌われ、とりわけ国学・儒学系の学者たちからは評判がよくなかったようです。あげく彼らのなかには17条憲法の内容を捏造する者まであらわれました。太子が作った憲法は一つではなく五種類あったという説をデッチ上げ、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」とあるのを「三宝とは儒・仏・神なり」と改竄した本まで登場したのです。
歴史論争が学問的意匠を装いつつ、しばしば政治的な要素を抱え込むのはいつの世も不可避ということなのでしょうか。

本書は岩波ジュニア新書の一冊ですが、内容的には法隆寺の釈迦三尊像に刻まれた銘文などの資料の信憑性検討をはじめ、かなり高度で専門的なものになっています。太子の人物像を描くに際しても、過剰に入れ込むでなく、冷たく突き放すでもなく、バランスのとれた手堅い書きぶりだと思います。聖徳太子の概略を知るうえでは最適の入門書といえるでしょう。

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