模範郷_Fotor

言語を失う感覚が生み出す言語世界〜『模範郷』

◆リービ英雄著『模範郷』
出版社:集英社
発売時期:2016年3月

〈ぼく〉の故郷は、台中の「模範郷」と人が呼んでいた街区。大日本帝国が統治していた時代に日本人たちが造成した街。作中の〈ぼく〉は作者リービ英雄と同一視してもよい存在でしょう。「模範郷」とそれにまつわる挿話はこれまでも彼の作品でたびたび言及されてきた時空間なのです。

〈ぼく〉は52年ぶりにその地を訪れます。再訪するのに半世紀以上の時間を要したことは偶然ではありません。行くことを躊躇わせる、あるいは行くことに意味を見いだせないリービ英雄固有の時間があったのです。

そのような時間の経過を踏まえたうえで、東アジアの複雑な現代史と作家自身の個人史が重ね合わされます。普通語と國語と日本語と英語が舞っていた言語空間。父と母が離婚することになる不幸な家庭環境。様々な意味で引き裂かれているようでもあり、同時に混沌とした文化の結節点のようでもあります。その交わりのなかにかろうじて存在する記憶の糸を頼りに、歴史と意識が渾然一体となって、独特の小説空間が紡ぎ出されていきます。

半世紀の空白を経て訪れた模範郷の街並みは当然ながらすっかりそのすがたを変えていました。予想していたこととはいえ、かつて住んだ家の跡地を確認した時、〈ぼく〉は言葉を失います。「何語にもならない、ここだった、というその感覚だけが胸に上がった」。
そのシーンでの同行した教え子で作家の温又柔の言葉がすぐれて印象的です。──言語化する必要はないのよ。

けれどもリービ英雄はことのあらましを「言語化」することで、模範郷のヒストリカルな世界を私たち読者の前に提示することを可能にしたのでした。言葉にする必要はない。その箴言は、言葉にしなくてはいられない欲望と矛盾しません。
それにしてもリービ英雄の言語体験は、私のように一つの母語だけで安穏と暮らしてきた者からすれば別世界の様相を呈していて、安易な共感を寄せることは許されないようにも感じられます。

「日本語を愛しきるために/一度の人生で足りないのは 詩人だけではないはず」と歌ったのは覚和歌子です。日本語を敢えて選んだリービ英雄が日本語を愛しているのかどうか私はよく知りません。が、彼が創り出す日本語が私たちの思考力を刺激し、感性を激しく揺さぶることもまた確かなのです。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?