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「見る/見られる」ことの官能〜『東京公園』

「撮る/撮られる」「見る/見られる」という関係は、映画やスチール写真の撮影現場では日常的に発生しては解消されていくものでしょうが、よくよく考えてみれば人間の社会自体がそのような非対称的な視線によって織り成された世界なのではないかとも思えます。むろんそこで「撮る/撮られる」という時には、本物のカメラを構えている必要はありません。意識的あるいは無意識裡に、あえてクサい表現をすれば心のシャッターのようなものが押されて、折に触れてその時のその人の顔が脳裏に浮かんできたりもするでしょう。

青山真治監督の『東京公園』は「見る/見られる」というすぐれて人間的な関係をめぐって描かれた映像のファンタジーとでもいえばよいでしょうか。公園を気まぐれに吹き渡っていく折々の風に木の葉が揺れ散り舞うように、「見る/見られる」男と女の表情のうつろいが画面を彩っていきます。

この映画の主人公は母親の影響でカメラマンを志望し、公園に通っては家族写真を撮り続ける大学生の光司。彼(三浦春馬)が最初に登場するシーンは、カメラのファインダーを覗き込む姿を真正面から捉えたショットで始まります。つまり映画の観客の方に向かってカメラを構えた主人公がまさしく観客と「対面」することになるわけです。その時、私たち観客は「撮られる=見られる」位置に座っていることになり、ただ一方的に「見る」だけの立場から一瞬浮遊してしまう。これはきわめて象徴的なショットではないでしょうか。

「見る/見られる」という関係は、通常においては非対称的なものですが、「見られる」者が「見る」者に転じる時、すなわち互いの視線が重なり合う時、その関係は視線以上の何かを共有するという意味で対等なものとなりえます。この映画では、登場人物たちの間にそうした瞬間がしばしば生起します。いずれの場合も重要な場面を構成しており、そこでは官能的な空気感や緊張感が画面を支配することになるでしょう。遠目から光司に撮られ続ける百合香(井川遥)が、一瞬、カメラに顔を向ける瞬間。義姉・美咲(小西真奈美)の思いを知って、光司が彼女の部屋を訪ね二人がしばし見つめ合う濃密な時間……。

光司の幼なじみで、彼氏を失った悲しみを引きずっている富永に扮する榮倉奈々の存在も重要。美咲の光司に対する思いを「解説」したり、百合香が巡る公園の位置関係を類推したり、光司に対して仄かな思いを抱いている風であったり、ホラー映画をはじめ加藤泰の名を出してシネフィルぶりを示す点では青山監督の分身のようでもありますし、一人の登場人物にしては幾重もの役割を担わされていて脚本上は些か作為的な人物造形がなされているけれど、独特のテンションでこの映画を活気づけています。
凛々しさと優しさ、不安が共存する難役を演じていつになく艶めかしい小西真奈美、セリフなしで清新な母性と女性性を帯びた存在感をみせる井川遥……と、主人公を取り巻く女性たちの三者三様のあり方はみものです。

基本的には青山組初参加の俳優陣たちによる作品ですが、常連組では唯ひとり斉藤陽一郎がピアニスト役で出ています。もっともエンド・クレジットが出るまで彼だとは気付かなかったのですが。
他に作家の島田雅彦がパーティの酔客役で顔を出していて隠喩的なセリフを口にしているのも一興。

人びとを温かく包みこむようにして存在する東京の公園が思いのほか美しい。濃い森と草地の広場が鮮やかに映える代々木公園。海沿いに広がる潮風公園。復元された竪穴式住居が印象深くすがたを見せる城北中央公園。そのほか猿江恩賜公園、上野恩賜公園、光が丘公園、野川公園。そして光司・美咲の親たちが暮らす伊豆大島の雄大な自然(そこもまた東京!)。光司が住む古風な一軒家も良い雰囲気を醸し出しています。

『Helpless』『EUREKA ユリイカ』『サッドヴァケイション』の北九州サーガ3部作で青山真治の力量に圧倒された観客からすれば、あまりにも小綺麗に仕上げられた本作には何か物足りない感じがしないでもありません。また青山作品にしてはところどころ説明調が過ぎるのにも引っ掛かりました。けれども殺伐とした東京という都会に温和な眼差しをさし向けた青山真治の新たな世界に、私たちもリフレッシュした視線を投げ返したいと思います。

*『東京公園』
監督:青山真治
出演:三浦春馬、榮倉奈々
映画公開:2011年6月
DVD販売元:アミューズソフトエンタテインメント

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