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喧騒の中で 12月9日活動日記

閉鎖解除以降、初めての夜の清掃活動となった。

23:00頃、どこからともなくロータリー広場に若者たちが集まってくる。人も、ごみも、この時間からがピーク帯だ。
その様子を見て、我ながらこの時間に設定していたのは間違っていなかったと確信した。

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夜の活動は、朝と比較にならないほどの勇気と覚悟を要する。
久しぶりに、胸の鼓動が静まらない部活の試合前の、「あの緊張感」を思い出した。(ちょっと大袈裟)

また、周囲は泥酔者が多く、路上には空き瓶も散乱しているため、身体的なリスクも高い。一応ボランティア保険にも入ってるのだが、会のメンバーが何かに巻き込まれないかいつもソワソワする。

そうしたデメリットもある一方で、夜の清掃活動にはその意義や「楽しさ」を感じる場面もある。

僕は、もうかれこれ数百日は活動してきたせいか、清掃活動は好きではない。けれども、夜の活動とロータリー磨きだけは、「楽しさ」を覚えることがある。

毎日この場所に来ると、大体この人はこの時間に来て、この集団はあのサークルで…というのが分かってくる。何度も会うから、ここで知り合った人間も多いし、たまに意気投合したりすることもある。「広場」の機能をフル活用している。

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そして、駅前広場の喧騒のなかでゴミが捨てられているその瞬間、ロータリーの会は介入する。その瞬間にこそ、「拾う人」の存在を再認識してもらっていると実感する。多方面から視線を感じる。これが、清掃活動の本来の役割だと、思い出す。

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問いたいのは、「僕らは何のために清掃活動をしているのか」ということだ。

活動の最中、ゴミを貯めている場所に空き缶を持ってきて、「これ、入れて良いですか?」と聞いてくる人がいる。もちろん彼らに悪意はないだろうし、基本的には受け入れるようにしている。
内心、自分の中の正義と葛藤しながら。

僕らは決してお金を貰っているゴミ収集員でもなければ、移動式のゴミ箱でもない。清掃<ボランティア>は、「路上にゴミを捨てさせないため」「持って帰ってもらうため」に行っている行為だ。我々がいなければ結局路上に放置するのであれば、この活動に本当の意味はない。

モヤモヤする。彼らに悪意はない。
でも、僕らも生きている人間である。
閉鎖前何度も味わったこの行き場のない心情に、また頭を悩ませながら、西武線に乗って家に帰った。時刻は、0時を過ぎていた。

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