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言葉を探している

「あなたは自由気ままに生きている娘だからね」

スマートフォン越しに聞こえる母親の声は、なんだかいつもより少し、嬉しそうだった。


4月半ばの夕方、歯科で治療中に突然、電話がかかってきた。私は驚いてポケットをまさぐり、通知音を切る。

診察代を払い終わるのを待っていたみたいに、2回目の呼び出し音が鳴った。「さっきはごめん、出られなかった」、私はすぐに電話をとって、平謝りした。

電話口で元気いっぱいに話す母親から、いくつかの事務的な報告を受けた後、それぞれの近況や、私がパートナーと東京で一緒に暮らし始めるための手続きについて、10分くらい話をした。彼女はとても慎重に言葉を選んで「ほんとにまだ(関係が)続いていたんだね」と言った。なんだか落ち着かなくなって、結婚や出産 のことについて「ぜったい期待しないでね」と念を押した。彼女が私を産んだのは、今の私と同い年くらいのときだったから。

母親は、「大丈夫だよ、何も期待してないよ。あなたはあなただって、私もパパも思っているから」と言った。私はそれを、だまって受け取った。


子どもを産まない、と決めた。

数ヶ月のうちに起こった変化の一つだった。もちろん私一人で勝手に妊娠ができるわけではないから、この決断を下すまでにはあらゆる経緯をたどっていて、現在過去の恋人たち、身近な人たちに変な問いを投げかけてみては、困らせてしまうことも多かった。

こういう手の話はいつも、触れたくないのに触っちゃう、イヤな感じがする にきび みたいな、私たちの会話の中心地だと思う。

私が小学4年生のときに、道徳の授業で「将来像を考えましょう〜」という課題が与えられた。
あまり面白い授業ではなかったけれど、加齢につれて起こりうるイベントや、将来像などのライフプランを書くもので、クラスメイトそれぞれの想像力が発揮された。私はたしか28歳くらいのところに、特に深く考えず「ふたりの子どもを産む」と書き込んだ。子の名前まで決めた(決めさせられた?)。なんでだろう。特に根拠はないけれど、性教育を受け始めるずっと前から「私(を含めた女の子たち)は周りに祝福されながら子どもを産むものだ」と思わされていた。

もともと、自分の女性性が好きだった。女の子らしいものや色、キャラクターにこだわりを持った子どもだった。ランドセルの色は赤で、いつも迷ったらピンク色を選んだ。高校生くらいまで、ずっとそうやって生きてきた。

成人を迎えて、大きくなるにつれて、友人たちから「あなたは将来結婚や出産をしなさそうだね」と言われるようになった。実際、その通りだと思った。
強い意志のもとで変化してきたわけではなかったけれど、気がついたらピンク色の服を着るのが嫌いになっていて、スカートを履かなくなっていた。揺らぎがちな思春期、ささいで確信的な変化は、誰にだって起こりうるものだろう。

それでも、ふとした拍子に、何かに迫られるように、焦るように、なかばむりやり、ふりふりひらひらのスカートを履いて、揺れるようなピアスをつけることがあった。好きな人と一緒の苗字になることや、しあわせな家庭を築くことへの憧れを抱いていた時期もあった。

自分の中に、意見が違うふたりの自分がいて、私本体が取り残されてしまう瞬間に陥る時がある。

自分の人生のなかに、初期設定として組み込まれている結婚とか、出産に抗えない自分、が、いやだった。私のおなかが大きくなる様子を思い浮かべては恐怖にかられた。

私が過去に大好きだった人との関係がうまくいかなかったとき、母親の前でわんわん泣いたことがある。私は、「だって一人なんだもん」と弱音をはいた。

この頃にはたぶん、私は今後この先ずっと独りでいるんだ、とうっすら思うようになっていた。誰と付き合っていたとしても、誰と一緒にいても。一人で生きていくほどの覚悟もできず、いつも中途半端に恋をする。苦しかった。

「あなたはいつも恋人を探している。寂しいんだと思うよ」

と、私のことをよく知る幼馴染は言った。あぁ、そうか。そうだったんだよな。そうだよな。

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結局、東京で同棲をすることはなかった。

その報告を受けた母親は、驚いたように私の方を見てから、いくつもの質問を投げた。一人暮らしの家はもう解約したよ、ちゃんと二人で決めたことだよ。ほらやっぱり、と「自由気ままな娘」にあきれ半ば、向けられた瞳はやさしかった。

そのあとは、仲が良よくて愛らしいひとと、ルームシェアして暮らすことを決めた。手放したお家とたくさんの不用品の山を見て、なんだかすごく、すっきりした。

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私はずっと、言葉を探していた。
自分が思うままの自分であれるための言葉を探していた。でも、そんなものはどこにもないんだね。

自分が自分であることへの自信のなさから、言葉の鎧を身に纏っていたんだな。窮屈さが心地よくて、私はほんとうに、自分が思うよりもすごく、保守的な人間だったんだなと、26歳を目前にしてから知る。

「その不器用さが人間らしくていいよ」と、
おもしろおかしく笑ってもらえたことが、何よりもうれしかった。

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