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月に届くなら

よく知りもしない男の子どもを孕んでいるかもしれない、と婦人科に駆け込む前日の夜だった。冷え込んだ風が木造46平米の1LDKに吹き込んできて、私の手足を凍らせる。この部屋に一人きりは孤独だ。スポットライトが一つ当たった大舞台に、突然立たされような心細さに襲われる。

助けてください、と、わたしは心の中で叫んだ。

孤独に弱い人間だ。人は誰しもそうだろうと言われれば、そうなのかもしれない。

ずっと生理が来ていないことが気がかりだった。
妊娠検査薬をひとつ、またひとつ、使うたびに向き合う恐怖はそれを知る人にしかわからない。

ピンと張られた糸にぎりぎり触れない程度の刃が当てられている。そんな感覚かもしれない。首元に刃が当てられている、そんな感覚かもしれない。頼る人はいなくて、悲しくないのに涙がこぼれる。またそんな自分を慰めようと別の過ちを犯しては、自分のことがきらいになる。

結局わたしは都合のいい女だっただけで、
2週間で3つもの検査薬を使い、ようやく婦人科に行く決意ができたのだった。

不安になった手前スクロールする手は止まらず、出産予定日や妊娠時の注意事項を一通り調べていた。責めようと思って女を責めることは簡単だ。あなたはきっと、この危機に立たされていないのだから。

私のお腹の中に赤子がいたとして、赤子が生まれたら、私は母親になるのかもしれない。なるのだろうね。いやだな、でもいやじゃないのかもしれない。もうこれで終わりにしたいな。また少し、泣いて、カレンダーにしるしをつけた。

十月十日で赤子が生まれてくるというけれど(正確にはそうでないにせよここでは大きな問題ではない)、成長するのは胎児だけじゃない。わたしはその十月十日後に(正確にはそのとき妊娠していたとしたら、の出産予定日に)しるしをつけた。わたしが変わる日、だと思った。さようなら。さようならをしたかった。

おなかの中には、なんにもいなかった。
わたしにはしるしだけが残った。

わたしがそうあろうと思うことと、周囲から望まれていること。選んでいるようで選ばされていること。「人生の手綱を自分自身で掴む」のいかに難しいことよ。それが女であれば、若い女であれば、未熟な10〜20代の女であれば。自分の責任さえ自分で取ることができない。どうしてわたしはこんなにも愚かなんだろう。

たかが若い女、されど若い女。

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最もめまぐるしい十月十日後、わたしはそのしるしがついた日を迎えた。新しいパートナーと一緒に暮らしていた。

生涯一人でいいやと断言した直後だったのに、思ってもみない場所にたどり着くもんだな、と、脚本家泣かせな人生に もはや感心した。長くて暗いトンネルをまたひとつ抜けたな、とほっとした。

いまでは毎晩その人の隣ですやすや眠りながら、"ただしい順序を踏んで子どもを迎え入れる準備"の可能性 を含めた将来の目標や指針について考えている。もう孤独だなんて言わせないよ、と溺愛されている。今までだったら限りなくありえなかったことだろうね。

一人でしかできないことと、ふたりでしかできないことはあって、これまで想像していなかったような新しい道が切り開かれていく現実にいささか慄いている。求めていなくてもそちらからやってくる奇跡のような選択肢は、ある。

一体、十月十日で何が変わるんだろう。液体だかなんだかわかんないような精子と卵子が結びついて腕で抱えられるほどの大きさになる間、わたしはわたしで成長していくんだと思う。思いたい。いまから十月十日後、あしたから十月十日後。

いまは、長年かけて叶えた夢と生活を天秤にかけていて、わたしがわたしでなくなるような、でも宇宙からしたらそんなことなんの関係もないよなとか考えながら、身近な人たちが笑顔でいてくれることの可能性とかも考えながら、歩いている。あぁわたしはどうしたらいいんだろう。わたしは何がしたいんだろう。夢を諦める大人になんかなりたくないけど、すでに社会は諦めなければならないことだらけで賃金も低い、保証もない、保険や年金は高い、差別や戦争だらけできょうもいまのいま、この0.1秒間にも人が不要に傷つけられ殺されているというのに、洪水や地震、氷河が解け、温暖化ほか、ありとあらゆる災害にまみれた世界だというのに。

こんな世界に新しく尊い命を生み落とすことの恐ろしさと、目先のしあわせと、未来と、恐怖と、不安と、お金とかもろもろ考える必要があることと、いやみんなはいつ一体どうやって貯金や投資なんてしているんだろう。わたしが夢みがちな子どもなだけだったのかな、とか、今更になって考えている。

26、もうすこしで27。

なにもかも難しく考えることをやめたら、いますぐしあわせハッピーであれるよ。でもまだ、わたしはまだ、夜明けだよ。なんでもできる、なんにでもなれるよ。

ずっとぐるぐるしているだけで、まだなんの結論も出ていないけど。

つぎの十月十日後、わたしはまた生まれ変わっているよ。おどろくほど遠くまでいくよ。

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