見出し画像

安藤老子

岩田「中央で勝つにはどうしたらよいでしょうか?」
安藤「勝つ気で乗らんことや」

安藤勝己元騎手と岩田康誠騎手の間で、岩田騎手の中央移籍に際して、こんな言葉のやりとりがあった。まるで禅問答のような安藤勝己の騎乗論であるが、これはまさに老子の説く「無為(何もしない)」の思想である。

世界中で最も柔らかく弱々しいものが、実は世界中で最も堅くたくましいものを思いどおりに走らせる。水が岩石を流すようなものだ。また実体のないものであってこそ、少しの隙間もないところまで入ってゆける。水がきまった形をもたないからこそ、どこへでも浸みこむようなものだ。わたしは、このことによって、ことさらなしわざをしない「無為」の立場こそが有益であることを知った。
「老子道徳経 下編」第43章


50kgそこそこの体重の騎手が、500kg前後のサラブレッドを駆る。腕力で抑え込もうとしても、鞭を使って駆り立てても、所詮その力たるや微々たるもの。思い通りには動いてくれない。どうするかといえば、「無為(何もしない)」の立場を貫くことだ。つまり、勝とうとして余計な小細工をしないことだ。

大前提として、騎手は馬を気持ちよく走らせ、持てる能力を全て発揮させなければならない。そのためには、人間(騎手)が馬を動かすのではなく、馬のリズムに合わせて人間(騎手)が動かなければならない。つまり、そこで人間の『勝ちたい』という意識は邪魔になり、(自らは)何もしないという態度を貫かなければならなくなる。

2006年に安藤勝己騎手が勝利した3つのG1は、勝つ気で乗らなかったからこそ勝てた。桜花賞はキストゥへヴンで臨んだが、道中は折り合いだけに専念し、終いの脚を生かすことだけを考えていた。ハイペースを読んでいたというよりも、馬の気持ちに逆らわないように乗った結果が、たまたま1着だったということだろう。

また、ダイワメジャーで天皇賞・秋とマイルチャンピオンシップを連覇したが、体の大きい割に繊細な馬の気持ちを読み取って、ムチを使わずに手綱だけで追い通した。後続から差を詰められても、慌てず騒がず、ダイワメジャーをファイトさせ続けることだけを心掛けた、ベテランらしい落ち着いた騎乗であった。

その教えを受けた岩田康誠騎手も、勝つ気で乗らなかったからこそ、オセアニアのメルボルンカップを勝つことができた。レース前に現地メディアからその騎乗振りを酷評され、完全にアウェーとしての戦いの雰囲気に飲まれ、レース前は緊張で震えるほどのプレッシャーだったという。

それでも、いざ馬に跨ってしまえば、あとはデルタブルースの競馬をするだけだった。バテない地脚の強さを武器とするデルタブルースを、あわや逃げるかと思わせるほど積極的に先行させ、大きなフットワークを最大限に生かすため、道中は馬群の外々を伸び伸びと走らせることに集中した。

「勝つためには勝つ気で乗らないこと」

分かっていても、実際そのように乗れる騎手は少ない。ペースが遅ければ動いてしまうし、前に行く馬の手ごたえが良く見えれば焦って仕掛けてしまう。ほんのわずかでも、騎手が『勝とう』と思ってしまうと、馬は敏感に反応して動いてしまうのだ。勝つために乗っているのに、『勝とう』という意識を捨て去ることは常人に為せる業ではない。

もしかすると、馬券も同じなのかもしれない。

「勝つためには勝つ気で賭けないこと」

そういえば、老子はこのようにも説いている。

戸口から一歩も出ないでいて、世界のすべてのことが知られ、窓から外をのぞきもしないでいて、自然界の法則がよくわかる。外に出かけることが遠ければ遠いほど、知ることはますます少なくなっていくものだ。それゆえ「道」と一体となった聖人は出歩かないですべてを知り、見ないでいてすべてをはっきりとわきまえ、何もしないでいてすべてを成しとげる。「老子道徳経 下編」の第47章

安藤勝己は中央競馬のトップジョッキーとして君臨していたときでさえ、しばらく地元である笠松を離れなかった。調教のある日には笠松の自宅から栗東トレーニングセンターに向かい、レースのある日は笠松の自宅から競馬場に足を運ぶ。「道」と一体となった聖人は、どのような状況に於いても足もとを見失うことがない。こんなところでも、本人が意識しようとも、しまいとも、老子の教えを見事に体現している。安藤勝己は老子である。

photo by M.H


「ROUNDERS」は、「競馬は文化であり、スポーツである」をモットーに、世代を超えて読み継がれていくような、普遍的な内容やストーリーを扱った、読み物を中心とした新しい競馬雑誌です。