必要なことは起こる(8月5日大幅加筆)

  タイトルは、スピリチュアルの鉄則とも言える言葉ですが、特に現世で成功した人を観察して思ったことはこの言葉なのです。人間は出るべき時に出るものであり、成功も失敗もその人にとって必要なことが起こった結果にすぎないということです。

1 当たり前だが、占術は未来を100%予知できるものではない

 該当する人間にある事象が起こった時、その人間を多角的に占術でみると「やっぱりね」と言いたくなることが多いです。もちろん、占術は未来を100%予知できるものではないです。あくまで統計学的な考え方ですので、ありのままでいくと、このような傾向になる可能性が高いということしか言えません。しかし、成功した人を見ていると、この人は持っているもののままに生きたと言いたくなる行動をとっている場合が多いです。要は自分を優先させて生きていられる時期があるということです。その時期が長ければ、それだけスムーズに人生展開が運んでいくことが多く、そういった場合は本人が良い意味で流れに任せているわけですから、先天運をそのまま生かしているともいえます。自分がもっている流れを理解し(無意識的に感じ取ることも含む)、その流れに乗るのが早く成功しやすいのは当たり前のことです。無理をしないわけですから。

2 ありのままが嫌な場合

 人によっては「人生何がおこるかわからないから決めつけない方がよい」「だから~という選択肢をもってもいいのではないか」と言う人がいます。「人生万事塞翁が馬」とも言えます。確かにそういうところもありますが、何も決めつけない状態でいくと、その人がもっている先天運のそのままでいく傾向になります。もっている先天運が、本人にとって良い方向に働く傾向であれば良いのです。自然体でいくことが、その人にとって良いのですから。「自然体でいって良い」ということは、ひねくれた見方をすると、ありのままでいっても問題のない運をいただけて、それを生かせる環境にいられるということですから、有形無形のものに感謝ということです。

 しかし、もし、本人の足をひっぱるような傾向の要素を持っていた場合はどうなるのでしょう?これは私の考え方ですが、もし先天運が本人にとって良くない傾向であり、本人も自覚してテコ入れを望んでいる場合は、何らかの対策をとった方が、自分の課題を長所にかえていくことができ、原因不明のトラブルや不調などから解放されるのではないかと思います。

 これは占術をいうことを考えなくても、自分のやり方で何かを行っていて、あまりにも成果が出ない・よくないことばかりが起こるときは、自分のやり方というものを見つめなおすことが重要だと思います。

(例)一方的にいじめられる
→先天運として、相手のことを考えることが苦手で、自分の思ったことをはっきり言ってしまうとでている。対策として、自分が発言する前に相手のことを少しは考えるようにする。

(例)何度、結婚しても離婚または死別して経済的に困窮する
→先天運として、離婚・死別しやすい要素をもっているとでている。対策として、1人でも生きていけるようなスキルを身につける。可能であれば結婚前に仕事に就いておく。人との関係はいつも良い状態だけでないことを悟る(出会いがあれば別れがある)。

 私が考える、「占術を生かす」ということは、上記の例のようなことです。

3 必要なことは起こる・必要でないことは起こらない

 自分の先天運が嫌だから、今の状況をかえたいからと、己の持っているものと向き合ってどうにかしようとしたとします。しかし、上記の例であれば、「いじめられる」「また離婚・死別をする」ということが必ず防げるか・改善できるかというと、それは絶対とは言い切れないのです。何をどうしても起こる時は起こります。自分で気をつけていても、行いを正しくしていても起こります。どんなに悪いと言われることであってもです。これを言ったらおしまいですが、「その人にとって必要なことは必ず起こる」のです。それが、特に、本人の行動によって引き起こされたわけではないとしたら、ある意味では宿命というか、その人の必須課題であると言えます。

 次元は異なりますが、聖人でも人間である以上は、肉体の死を免れなかったことと同じです。四大聖人とされるお釈迦様も入滅なさっているわけですしね。逆を言うと、大金持ちになる、結婚や出産など、社会的にいって良いと思われることであっても、その人に必要がなければ起こらないと言えます。仮に占術で、その人がたくさんの子ども(実子)に恵まれるという結果が出ており、本人もたくさんの子ども(実子)がほしいと思っていたとします。しかし、現実には子ども(実子)に恵まれないで一生を終えるということもあります。逆に、占術で「子ども(実子)の世話ができないから、子ども(実子)をもたない」という結果が出ていて、本人もそういう自由意志を持っていたとしても、その人の人生において「子ども(実子)をもつ」という事が、代替手段のないような宿命・課題であるならば、子ども(実子)をもつことになります。もし代替手段があるならば、課題における多少の譲歩として、実子を広く「子ども」ととらえ、実子ではなく養子という可能性もありますが。

 そういった場合、私は、いくら占術の結果と本人の自由意志が合致しているという、物事がスムーズに運びやすい状態であっても、宿命と課題には勝てないのだと思うのです。家族や親しい人などの中で、自分がその方面で苦労をしていない人、苦労はしていないけど相手の気持ちを想像しようとしない人、自分が正しいと思っている人、感覚的に自分とそれ以外の人間の境が不明瞭な人は、やみくもに「かわいそう」・「お前が悪い」・「かわっている」・「~をしたから~という結果になった」と、勝手に憐れみ、勝手に責めたりするものです。しかし、それが本人にとっては、つらく悲しいことであっても、他人がとやかく言うことではないのです。その過酷な結果が、その人の人生にとっては必要であったのです。周囲の人の価値観ではありえないことであっても、本人にとっては幸せな状態なのかもしれないのです。
 もちろんその逆もあります。私の場合ですが、占術(西洋・東洋両方、複数の占術)では、学力があまりにもなく、義務教育がやっとこさで高校以上の学校に行けないと出ていたものの、高校以上の学校を卒業しています。この場合、占術に高校以上の学校に行きたいという自由意志が勝ったのか、宿命・課題が勝っていたのかもしれません。

※しかし、初等教育・中等教育機関での環境が過酷であるという点と学習で大変苦労するという点は当たっていました。

4 占術、自由意志と宿命・課題の付き合い方

 占術は万能でないが、傾向と対策としては使えるものです。同時に、自分がこうしたいという自由意志は重要です。脳にあると言われるRASという機能のように、人間は自分が必要とする情報を取り入れようとするものですので、自由意志が強ければ、自分の意志を叶えるために必要な情報を引き寄せるはずです。そして、占術に興味がある人ならば、そういうアイテムを使って、ハンデを力にかえることもできます。それでも、全てが自分の思い通りになるかというとそうではありません。本人の行動による結果だけでなく、人間業とは思えないような不測の事態が起こることもあります。

 要は、自分の自由意志を持ち、努力をすることは無駄ではないとはいえ、一方で現状を見つめ、この世にはどうにもならないものもあることを知るということなのではないでしょうか。この境地に至ることは、「諦観」に通じると思います。よく、行っていたことを途中でやめることを「諦める」と言いますが、本来の意味は「あきらかにみる」ということです。途中でやめることではなく、客観的に現状を見つめて、それを受け入れ、対策をたてて動くことです。けして中断や放置というマイナスの意味ではないのです。

 また、これは色々な考え方がありますが、私は「宿命」と「運命」は異なると考えています。「宿命」は課題と親和性があると思いますので、これは基本的に変更ができないと思います。変更ができても代替の課題を与えられるくらいで、大筋は変わらないと思います。一方、「運命」というものは、個人の努力や気持ちの持ち様によって、ある程度は変えられるのではないかと思います。以前、書きましたが、メニューと材料が宿命なら、そこに至る料理法は運命です。

 自分の身に現れる事象は、無意識の世界(いわゆるあの世)であれやこれやと決めてきたことを、この意識のある世界(いわゆるこの世)で行っている結果だけなのかもしれません。そこに自らの前世の課題を解消する(魂の成長につながる)というミッションが入るとする人もいます。スピリチュアルなどはそうですよね。ある意味、究極の自己責任です。

 いずれにしても、つまりは自己責任ということになりますが、それにしても何でこんなことになる!と悪態をつきたくなることも多くあります。宿命や課題は十人十色であり、課題の上下はないのです。あえて数値化の考え方をとると、相対評価ではなく絶対評価の世界です。何をどうしても何も起こらないという人生はないのですから、「どうにもならないようなことを嘆く」より、「それではどうしたらよいのかと対策をたてる」、「起こった事はみな最良である」と発想を転換させることも処世術であると言えます。

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