大河が始まるので家系が複雑な畠山氏をまとめてみた
※この記事は、2019年11月1日に「ローザのまるごとこの世を楽しむブログ」に書いた記事です。
https://ameblo.jp/rozaroza-s/entry-12546905150.html
私は数多い武将の中でも畠山重忠(桓武平氏系)が好きです。
彼は私の中では、バランスのとれたカリスマ性がある優等生タイプ
でかつ容姿がよいというイメージでいます。
「Mr.パーフェクト」という感じです。
畠山重忠公史跡公園(埼玉県深谷市)にある畠山重忠像↑
重忠の馬おんぶ in 鵯越さながらに、愛馬を背負って谷を降りる像です。
人前で姿勢を崩してもよい時であっても
姿勢を崩さないくらいに律儀な人だったようです。
文武両道で容姿もよく、音楽にも長けていたようです。
よくある平家の武将では平忠度に近いのかなと思いました。
ただ、忠度の容姿はよくわかっていないので、
ここはおいておきます。
個人的な事で、論文を書くわけではないのに、
2018年からこの一族について集中的に調べていますが、
いや謎が多い一族ですよ。
そもそも、大人の事情で平姓→源姓にかわる
(実際は秩父氏が元ですので、平氏系の血筋も残っているようですが)
事からして、複雑です。
ものすごくざっくり書くと、こういう事みたいです。
まず、重忠が亡くなった後、
重忠の正室であった北条時政の娘(伝承に出てくる菊の前ではない)、
または重忠の娘が、足利義兼の庶長子(正室の子でない長子)義純と結婚
し、「畠山」の名跡と重忠の領地を相続します。
義純は新田義兼の娘の来玉姫と結婚して子どももいましたが、
離婚して再婚したのでした。(諸説あり)
足利氏は清和源氏系ですので、ここで主な血統が源氏系になり、
源姓畠山氏がスタートします。
〈源姓〉
・金吾家(きんごけ)
→新田義貞の息子義興に祟られた(後で没落)国清など
(※国清は足利基氏と共に義興を殺害しようとし、
結果的に送り込んだ江戸遠江守が義興を謀殺)
→義興が祟ったので祀る
→新田神社へ
破魔矢発祥の地 新田神社(東京都大田区矢口一丁目21-23)
http://www.nittajinja.org
→畠山氏の子孫が来ると雨が降り、狛犬がうなるという伝承がある
→管領家(応仁の乱で有名な政長やみんな大好き義就とか)
※みんな大好き義就とは→呉座先生の『応仁の乱』を読まれた方に好きな人物を聞いたところ、畠山義就が1番になったことから。
※『応仁記』や『長禄記』にも政長や義就が出てきます。活字で読めます。『応仁記』は英訳もあります。
A 金吾家から分かれる(総州)
→義就が河内国へ行く
→尚誠が足利義昭(最後の将軍)を擁立する。
その後は消息不明。
B 金吾家から分かれる(尾州)
→政長の父持富が初代。
→江戸幕府の旗本として生き残る。
・能登
→途中で米沢藩主の三男が養子に入る系統もある。
→江戸幕府の高家として生き残る。
→畠山記念館(よくお茶器の展示をする所で、寸松庵色紙を持っている)
の創設者である一清氏(即翁)などが出る。
荏原製作所・うずまきポンプ
畠山記念館
https://www.ebara.co.jp/foundation/hatakeyama/index.html
・奥州(本来の嫡流)☆☆
→高国が観応の擾乱で自害。
→義純が伊達政宗の父輝宗と共に死ぬ。
※その先は二本松氏や国人へ。結構、岩手県にいるらしい。
※鎌倉時代の段階で日向国や薩摩国へ行った人たちもいるらしい。
〈平姓〉
・重忠の後裔をなのる人々が、岩手県へ行き、浄法寺氏等になったとされる。
・江戸氏や男衾氏などなど。(『男衾三郎絵詞』)
※岩手県には重忠を祀る神社も発見しました。
岩手県田野畑村浜岩泉237にあります。
重忠が乗っていた馬の鐙を埋めたらしいです。
https://www.vill.tanohata.iwate.jp/kankou/see/hatakeyama-jinjya.html
浄法寺氏にちなむ浄法寺塗
https://kougeihin.jp/craft/0503/
色々な事情があり、重忠は北条氏に滅ぼされてしまいますが、
心情的な意味では脅威に思ってしまう要素がある人とも言えます。
何でももっているタイプですからね。
私が北条氏ならば、むしろ重忠的な人は自分の近くにおいておき、
彼のカリスマ性を人寄せパンダ的に利用するのになと思います。
みんながついていく人ならば、言いにくい事ややりにくい事は
彼に代弁・代行してもらうという手もあります。
そして律儀な性格である事を利用できれば、
こちらが厚遇すれば簡単に牙をむかないでしょうし。
今さら言っても仕方がないのですが。
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