ヒンデミット:弦楽四重奏曲第4番

In this video, we'll be taking a look at the Hindemith String Quartet No.4, Op.22 by Paul Hindemith. This beautiful work is full of rich and emotive melodies, and is sure to inspire your playing.

Whether you're a beginner or an experienced player, this Hindemith String Quartet No.4, Op.22 is a must-play for your collection. Get lost in the beauty of this classical work and enjoy the sound of the strings!

00:00 I. Fugato: Sehr langsame Viertel
05:10 II. Schnelle Achtel: Sehr energisch
10:05 III. Ruhige Viertel: Stets fliessend
18:53 IV. Massig schnelle Viertel
20:32 V. Rondo: Gemachlich und mit Grazie

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パウル・ヒンデミット

基本情報
生誕 1895年11月16日
出身地 ドイツの旗 ドイツ帝国、ハーナウ
死没 1963年12月28日(68歳没)
西ドイツの旗 西ドイツ、フランクフルト
ジャンル 新古典主義
職業 作曲家、演奏家
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パウル・ヒンデミット (Paul Hindemith、1895年11月16日 - 1963年12月28日)は、ドイツ・ハーナウ出身の作曲家、指揮者、ヴィオラ奏者。その他にもヴァイオリン、クラリネット、ピアノなど様々な楽器を弾きこなす多才な演奏家であった。

第一次世界大戦後、ロマン派からの脱却を目指し、新即物主義を推進。20世紀ドイツを代表する作曲家として同時代の音楽家に強い影響を与えた。また生涯に600曲以上を作曲。交響曲やオペラばかりではなく、オーケストラを構成するほぼすべての楽器のためのソナタを作曲した。

経歴

アマール四重奏団の一員として(右から二人目)(1925年)
1895年11月16日ドイツのハーナウに生まれた。父親はシレジアのナウムブルク・アム・クヴァイス(現ポーランド領ノヴォグロジェツ(英語版))出身の職人で、芸術家になろうとしたが成功しなかった。自らの夢を託そうとして、父は子供たち(パウル、弟のルドルフ、妹のトーニー)に厳格な音楽教育を施した。1908年にフランクフルトのホッホ音楽院に入学し、ヴァイオリンをアドルフ・レーブナー(英語版)に学ぶ一方で、作曲と対位法をアルノルト・メンデルスゾーンとベルンハルト・ゼクレス(英語版)に学んだ。父は子供たちで弦楽三重奏団をくませて演奏させた(パウルはヴァイオリン)。

1913年から劇場の管弦楽団のヴァイオリン奏者として音楽家としてのキャリアを開始した。生計のためにコーヒーハウス、ダンスホール、映画館などで働くこともあった。20歳の時にフランクフルト・ムゼウム管弦楽団(フランクフルト歌劇場管弦楽団)のコンサートマスターを務めている。1915年からは師のアドルフ・レーブナーの弦楽四重奏団のヴィオラ奏者をつとめた。第一次世界大戦で父親は戦死した。ヒンデミット本人も1918年に従軍している。この時代に書かれた曲は大部分がヒンデミットの生前には出版されなかった。

戦後、ヴィオラのソロ奏者としての活動を行うとともに、多くの作曲を行った。1920年に結成したアマール弦楽四重奏団では、8年間にわたり活動し、1921年に開かれた第1回ドナウエッシンゲン室内音楽祭において『弦楽四重奏曲第3番』作品16の初演を行っている。1924年にフランフルト歌劇場の主席指揮者であったルートヴィヒ・ロッテンベルクの娘のゲルトルート(ヨハンナ・ゲルトルーデ)と結婚した。

1927年にベルリンに引っ越し、ベルリン音楽大学の作曲科の教授をつとめている。当時ヴァイオリンのヨーゼフ・ヴォルフスタール(没後はシモン・ゴールドベルク)、チェロのエマヌエル・フォイアーマンと結成した三重奏団は有名で、自身が演奏するための弦楽三重奏曲も作曲している。作曲家としてはオペラ、映画音楽、あるいは電子楽器トラウトニウムのための音楽など幅広い活動を行い、自ら演奏するためのヴィオラやヴィオラ・ダモーレのための曲も書いた。ヒンデミットは国際的に有名になり、ダリウス・ミヨー、イーゴリ・ストラヴィンスキー、フランツ・シュレーカーらと知り合った。

ナチス・ドイツ時代のはじめにおいてはヒンデミットの評価は揺れていた。ヒンデミットの音楽はロマン派の作曲家からすると進歩的すぎるが、アヴァンギャルドな立場を取る作曲家たちにとっては穏健で順応的すぎると批判されていた。アヴァンギャルドを批判していたナチスにとっては、ヒンデミットは受け入れられないものではなかった。[要出典]しかし、ヒンデミットは当時帝国音楽院の顧問であったのにもかかわらず、上記のようにユダヤ人のヴァイオリン奏者、チェロ奏者と弦楽三重奏を組んでレコーディングをするなどし、ナチスから反感を買っていた。1934年にフルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によって交響曲『画家マティス』が初演され、大成功した。しかし、同年10月にナチスの機関紙が「堕落の旗手」としてヒンデミットを非難しはじめた(ヒンデミット事件)。12月にヒンデミットはゲッベルスによって「無調の騒音作家」とされた。1936年には公式にヒンデミット作品の演奏が禁止され、1938年の退廃音楽展でも批判された。作品の発表の場を失ったヒンデミットはベルリンから離れることが多くなり、1935年にはトルコ政府からの依頼で、音楽教育の編成に携わり、アンカラ音楽院の開校に尽力した。1937年から1939年まで毎年渡米している。

1938年夏にスイスに亡命し、ヴァレー州ブリューに住んだ。さらに1940年にはアメリカに亡命し、イェール大学の教授としてニューヘイブンに住んだ。アメリカ時代の教え子にはルーカス・フォス、ノーマン・デロ=ジョイオらがいる。アメリカ時代に作曲された曲には『ウェーバーの主題による交響的変容』、『ルードゥス・トナリス』など、人気の高い曲が多い。

第二次世界大戦終結後の1946年1月にアメリカの市民権を得たが、1951年からスイスのチューリヒ大学の教授の任についた。1953年にはイェール大学を辞してスイスに引っ越し、モントルー近郊のブロネに住んだ。ウィーン音楽院の教壇にも立ち、1956年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の初の日本への演奏旅行に指揮者として来日している。

1963年11月に自宅で高熱を発し、診療のためにフランクフルトを訪れたが、そこで12月28日に死去した。死因は出血性膵炎だった。スイス・ヴォー州ラ・シエザ(英語版)のラ・シエザ墓地に埋葬されている。

作風
それまで独奏楽器としては無視されていたヴィオラの独奏曲を多く残すとともに、通常のオーケストラに定席を持つほとんどの楽器の独奏曲を残した職人的な作曲家であり、各楽器の独奏者に重宝がられている。

初期の作風は後期ロマン主義や表現主義の影響が濃厚であったが、1920年代より新即物主義、新古典主義へ移行した。しかしイーゴリ・ストラヴィンスキーのそれとは異なり、モーツァルトの古典的な明瞭さよりもバッハの対位法を好んだ。バッハの演奏で名高いグレン・グールドは「ヒンデミットは現代の数少ない真のフーガの名手である」と彼の対位法技術の高さを評価している。また彼はクルト・ヴァイルやエルンスト・クルシェネクとともにアマチュアでも演奏が容易な「実用音楽」を提唱している。

指揮、ヴィオラ独奏ともに録音を残し、ヴィオラ独奏では、自身の曲にふさわしい豪快でパワフルな演奏を繰り広げている。一方で、作曲家の柴田南雄はウィリアム・プリムローズ等の専門家と比べると、ヴィルトゥオーソとは呼べないと指摘している。

音楽論
それまでの伝統的な、狭義の調性の枠を大きく超えるような音楽を書いたヒンデミットであるが、シェーンベルクらの無調音楽に対しては自然倍音の正当性を守る立場から否定的であった。教育も一風変わっておりヴィルヘルム・マーラー式和音記号を採用せず、数字付き低音の正当性を主張したドイツ人作曲家としても知られている。『三声部楽曲の練習書 Übungsbuch für den dreistimmigen Satz』(未邦訳)では彼独自の記号が並ぶ。

彼は、複数の音が同時に鳴ると、その周波数の和の音と差の音がかすかに発生する(例:400Hzと500Hzの音が同時に鳴ると、900Hzと100Hzの音が発生する)、という現象に着目し、その結果、どんな複雑な不協和音や半音階的旋律にも、複数の音の間には調的な支配関係が存在し、完全な無調は存在し得ない、と主張した。そして、あくまでも一つの中心音の調的な支配力のもとで、斬新な和音や半音階を駆使する作法を確立していった。このような作法は「拡大された調性」とも呼ばれた。

12のフーガからなるピアノ曲『ルードゥス・トナリス』に使われている音列は、基音Cから徐々に不協和となる、という構造を持ち(C-G-F-A-E-Es-As-D-B-Des-H-Fis)、そうした理論が典型的に示されている。
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