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『稲盛和夫一日一言』4/11(火)

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 4/11(火)は、「判断基準の原点」です。

ポイント:小さい頃に両親や年長者からしつけられた、「していいこと、してはいけないこと」といったプリミティブな教えこそが、人間として最も基本的な判断基準。

 2015年発刊の『稲盛和夫経営講話選集 第2巻 私心なき経営哲学』(稲盛和夫著 ダイヤモンド社)の中で、プリミティブな判断基準を持つことの大切さについて、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 1959年、27歳で会社を始めて、最初に遭遇したのはトップの重責でした。工学部出身で、経済も経理も勉強したことのない私が判断を誤ってしまえば、会社の存続にも響きかねない。日々あまり深く考えもせずに行っている一つひとつの判断が、実は会社の命運を決めているかもしれないと思うと、あまりの責任の重さに、眠らない日が続きました。

 どのようにして物事を決めていくべきなのか、散々悩んだ挙句、「会社経営を知らないんだから、人間として何が正しくて、何が正しくないのかということに基づいて決めよう」、物事を判断する基準をもっていなかった私はそう考えたのです。

 小学校しか出ていない私の両親や祖父母が、子供の頃から私に、「あれはやってはいかん」「これはやっていい」「人間としてそんなことは困る」と言って教えてくれた、本当にプリミティブな、人間として正しいこと正しくないことや、小学校、中学校、高校のときに、修身の先生に教わった、やっていいこと悪いこと、そういったものを判断基準にしようと思いました。

 しかし、そのことをそのまま社員に話すとばかにされるかもしれないと思ったものですから、私は「原理原則に基づいて判断します」と言うようにしました。わけが分かったような分からないような言い方ですが、「人間として根本的に何が正しいのか、正しくないのかに基づいて判断しよう」と考えて経営を始めたのです。

 トップのもつ考え方が、会社の命運、会社の将来のすべてを決めていきます。考えてみると、会社を始めたときに経営の原点に据えた。このプリミティブな判断基準のおかげで、今日の京セラがあると思っています。(要約)

 「修身」とは、戦前の小・中学校などで行われていた教科のひとつで、教育勅語をよりどころとして国民道徳の実践指導を目的として、終戦の1945年まで続いた授業のことです。

 京セラフィロソフィの中に、「迷った時には原点に返る」という項目があります。
 「人間として正しいことを貫く」という原理原則に基づいた、確固たる判断基準を持っていても、時と場合によっては、明確な判断をしにくい問題に遭遇し、誤った判断を下してしまうことがあります。
 そうした場合、自分では正しい判断を下したつもりでも、結果として誤った判断をしたことになり、当初の目標から大きく逸脱してしまうことになります。不安に思ったら、勇気をもって「人間として正しいことを貫く」という原点に返り、最初の判断の時点まで戻って考え直しなさい、という内容です。

 誰もが、自分なりに「何が正しくて何が正しくないか」という基準となる基準は持っていますが、その根っこの部分がどうやって形づくられているかが問われるわけです。

 例えば、「困っている人がいたら、声を掛けて助けてあげましょう」だとか、「ゴミが落ちていたら拾ってゴミ箱に!」「濡れている人がいたら、自分の傘をさしかけてあげましょう」など、小さいころに両親や先生から教えられて、そうするのが当然だと思っていたような行為でも、年齢を重ねるうちに、即行動へと移せなくなっている自分に気づくはずです。

 「自分の良心が痛まないかどうか」
 今後とも、人間として最も基本的ともいえるそうした判断基準を大切にして生きていきたいものです。


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