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『稲盛和夫一日一言』 12月31日

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 12月31日(日)は、「終わりの価値を高める」です。

ポイント:宇宙のとてつもなく長い歴史からすれば、人生はわずかな一閃(いっせん)にすぎないかもしれない。しかし、その一瞬にも満たない生の「始まり」よりは「終わり」の価値を高める、そこに生の意義も目的もある。

 2001年発刊の『生き方』(稲盛和夫著 サンマーク出版)の冒頭、人間の存在と生きる価値について、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 「人間は価値ある存在なのか」「この世に生を受け、生きていく意味とはどこにあるのか」
 そうした「人間」というものに対して核心をつくような問いを受けたとき、私は次のように答えています。

 「地球上、いや全宇宙に存在するものすべてが、存在する必要性があって存在している。人間はもちろん、森羅万象(しんらばんしょう)、あらゆるものに存在する理由がある。
 たとえ道端に生えている雑草一本にしても、あるいは転がっている石ころ一つにしても、そこに存在する必然性があったからこそ存在している。どんなに小さな存在であっても、その存在がなかりせば、この地球も宇宙も成り立たない。存在ということ自体に、それくらいの意味がある」

 サイエンスの世界では、宇宙を構成するエネルギーの総量は一定量を保っているという「エネルギー不変の法則」があります。
 エネルギーの総量は一定だから、無生物であってもすべてが宇宙を構成するために必要欠くべからざるものであり、宇宙ではどんな微細なものが欠落してもバランスを崩すことになるので、存在している以上、宇宙を構成するために必要なもの、あるいは必然として存在している、ということになるという考え方ができます。

 また、宇宙のなかで「存在する」ということは、あるものが自立的に存在するのではなく、すべてが相対的な関係のなかで存在するということになります。他が存在しているから自分が存在し、自分が存在するから他が存在するという、相対的なつながりにおいて存在というものが成り立っている、ということもできます。

 お釈迦様はそのことを、「縁があって存在する」というふうに表現されました。まさに、すべてのものは偶然ではなく、存在すべくして存在している。この世に生まれ存在していることは必然であり、存在するだけで価値があるのです。

 例えば、稲盛和夫という人間が生まれ、ここに存在するというのは、果たして偶然なのか、必然なのか。
 これはたいへん難しい問題ですが、仮に「たまたま生まれた」ということであれば「生まれても生まれなくてもいい」ということになります。しかし、人間にそれほどの価値はないとしても、生まれてきたことを「必然」と位置づけることで、私たちは人間としての価値を高めていけるはずです。
 「必然的に生まれた」ととらえることによって、生きる意義、意欲、使命というようなものが出てくる。私はそういう考え方が大事だろうと思っています。
(要約)

 今日の一言には、「生の始まりよりは終わりの価値を高めること。そこに生の意義も目的もある。そうであることを信じ、そうであろうと努める過程そのものに人間の尊さがあり、生の本質がある」とあります。

 今日一日で2023年も終わりです。しばし日ごろの慌ただしさから解放されて、「自分が生きていく意義や目的はどこにあるのか」といったなかなか解の出ない問答を繰り返してみるのも、新たな一年をフレッシュな気持ちで迎えるための準備になるのではないでしょうか。

 今年一年、多くの方にアクセスいただき、本当にありがとうございました。2024年も引き続き、健康に留意しながらしばらく継続していきたいと思っておりますので、引き続き宜しくお願いいたします。

 皆さん、良いお年をお迎えください。



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