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ヤンゴンでの托鉢(たくはつ)

5年くらい前だったか、知り合いのシンガポール人弁護士のおばさんが、おもしろい人と知り合ったからいっしょに晩飯食おうという。ミャンマー人だがシンガポール在住が長い人で、医療とか投資とかに関わっている人だという。そして、ほぅと思ったのは、スーチーさんの遠い親戚にあたる人だという。

ニョニャ料理という、シンガポールやマレーシアの郷土料理で中華とマレーのフュージョンみたいな料理のレストランで、肉の輸入をやっているというシンガポール人と4人で食事した。たしか、もう年の瀬の12月末頃だったか。

お会いした初老のミャンマー人は、シンガポールで長年、医療関係のベンチャー投資とかをやっている人だった。静かに言葉を選びながらしゃべる人だった。

ちょうど、その年の11月にアウンサンスーチー率いる党NLDが圧勝、50年以上続いた軍政から、国民の悲願の民政移管となる歴史的なタイミングだった。その人は淡々と言う。

「(私みたいな、もう外が長くなってしまったもんにも、帰ってきて国の再建に力を貸してくれなんていう声をかけてくれてます。そういわれても、こっちでずっとやっていることもあるし、まあ、できる範囲でお手伝いしますと答えてるんですよ)」と静かに語る。

僕はワインでちょっと酔ってきた勢いで、ちょっとつっこんだ質問をしてしまった。あまりストレートにならないように気はつかったつもりだったが、やはり初対面の夕食の場でする質問ではなかったか。

「大学の専攻が中南米の政治経済研究だったので、80年代の南米の軍政からの民政化についていろいろ調べたことがあります。御存知の通り、アルゼンチン、ブラジル、チリとかは、ミャンマーと同じ60年代に長期軍政となって、それが経済の破綻と民衆の声の高まりで、80年代半ばにつぎつぎと選挙で民政移管しました」

「やはり長期軍政での問題点は、軍人というより官僚化した強権の権威主義的な政府が、治安維持を名目に反政府運動の弾圧でかなりの人権侵害を起こしてしまったこと。自分は民政移管間もない現地に行きましたが、軍政中に行方不明となった子供について正義を求める母親たちのデモとかあって、それが、過去の将軍とかの裁判での人権侵害での断罪へとつながっていました。ミャンマーでもそうした、過去の精算の動きというのはどうなのでしょうか」

答えはなかった。その人は、悲しそうに笑うと、ぽつりと言った。「(ミャンマーは中南米とかよりも、もっと複雑なんですよ。軍との関係も複雑なんです)」

その頃2015年は、ミャンマーが最後の経済フロンティアとして、日本企業の「ミャンマー詣で」も盛んだった。日本政府もたしか年間500億円規模のODAを5年だか出し続けると公言していて、日系企業がインフラ整備とかに名乗りをあげていた。親日的、勤勉なミャンマーは、70年近い眠りから覚めて、かつての繁栄を取り戻しに行くような勢いがあった。ヤンゴンはイギリス植民地時代は東南アジアで一番栄え、シンガポールも建国の都市計画で参考にヤンゴンへ視察にいったくらい。まあ、その栄光は当時イギリスがアジアでの有望な植民地としてテコ入れし抑圧しすぎた、それがその後反動で、きわめて外人排他的な鎖国につながったという皮肉な歴史となったが。

当時、ある仕事で、ヤンゴンで不動産開発をすすめる現地のグループと、日本側でミャンマーで事業展開に関心があるところとの合弁の可能性について交渉していて、2ヶ月に一回くらいヤンゴン詣でをしていた。シンガポールからだと、毎日数便あって、片道3時間くらいで行ける。東京から北海道行くような感覚で出張できていた。まあ、毎回US50ドルとかのビザをとったりの面倒はあったが。

その過程で、別のNoteポストで触れた、だじゃれの愛弟子とも出会うのだが、それはさておき、その合弁プロジェクトは右往左往した末に、結局、頓挫してしまう。まあ、あまり語りたくはないが、日本側がなんとも迷走して、それに振り回された感はあった。ミャンマー側も、政府の方針とかがなんとも不明瞭なところが多々あった。

それで、そのプロジェクトの雲行きが怪しそうになった頃のヤンゴン出張で、翌日の早朝便で帰国するという前日の午後に、もはやこれだめだなというのが確認されることとなる。

それで、ミャンマー側の数人と、晩飯を食べて、軽く飲みに行く。「残念会」といった感じだった。

もう10時ごろをまわった頃に、ミャンマー人のMさんがふと言う。

「今回は残念だったけど、いろいろよくやってくれました。ありがとうございました。。。ところで、明日の朝に、会社がスポンサーで托鉢の寄進するんだけど、来ますか?」

「托鉢?お坊さんにご飯あげるやつ?」

「そうです。うちの会社でお金だして、何ヶ月に1回か、そういう炊き出しの会社で食事は用意してくれて、うちの社員でそれをお坊さんに配るんです。功徳が積めて、いいですよ。ただし、」

「ただし?」

「裸足でやらないといけないのと、朝3時から明け方までやる。それ、だいじょうぶですか?」

「あ、フライトが朝8時のやつですが。裸足で、歩く?」

「フライトそれなら大丈夫。托鉢終わって、近くのインド料理で朝飯たべて空港まで送っていきますよ。裸足はごはんを配るときだけ、立っている時。道は石がありますが、お坊さんたちがみえたら、靴脱げばOK」

結局、11時に一旦ホテルに帰って、数時間仮眠して午前3時前にホテルをチェックアウトして迎えにきてもらうことになる。功徳というのが、マイレージみたいにポイント制だとするなら、今回の日本側の動員失敗も、我が功徳ポイントの少なさが問題だったかと素直に反省。このミャンマー企業の、組織的な徳のポイント獲得に乗っからせてもらうことにする。

初めての托鉢(たくはつ)体験。

車でたどりついた、道端にある炊き出し所では、ゆげがあがっていた大きな釜5つくらいで、ご飯と、カレーのようなものがたくさん調理されて用意されていた。カレーのような汁物は持ち運びのできる器に、ごはんは我々が片手で抱えてしゃもじで坊さんの壺に入れてあげられるような櫃(ひつ)にいれられて、それが数十個ならんでいた(もっとあったかもしれない)。

午前3時をすぎると、なぜか、炊き出し所で、深夜なのにがんがん大きい音で、ミャンマーの民族音楽のような、お経のような音楽をスピーカーで鳴らしはじめる。かなりの音量。民族音楽は、けっこうビートが効いたサウンドで、サックスのような音のたぶん木製のリードをつかった管楽器が不思議なインドのような音程を奏でている。しかし大音量、うるさい。

すると、遠くから、数十人から50人くらいの茶色系の法衣をまとったお坊さんが一列で歩いてくる。

それで、お坊さんたちが彼らの壺?の上に被せた布をあけて差し出してくるので、Mさんの会社の人数人と僕は、ひたすら、白いごはんを櫃からひとすくいしてはそれに入れる。かるく会釈する。それをひとグループ50回くらい繰り返す。

お坊さんの年はいろいろ。若い方はおそらく小学生のような子供もいた。剃り上げた頭が青々しいのが、小さめの壺を持っていた。市内の異なる寺から廻ってくるという。そういう寺のグループが、10分おきくらいに数十組来た。

路にはたしかに石ころがいっぱいころがっていて、裸足だとなれないとちょっと歩くだけで足裏が痛い。悲しいかな日本人の足の裏は退化して、ちょっとした異物にも弱い。僕は裸足で通そうとおもったが、ご飯の櫃の代わりをとりに十歩歩くだけで足裏がずきずき痛かったので、忠告どおり、くつは履いて、托鉢のときだけ脱ぐことにする。

作業はそれだけ。ただ立ってごはんをよそって、それがなくなると代わりをとりにいって、またひたすらよそる。がんがんと蛇笛のような民族音楽が流れる中で、暗闇からやってくる坊さんたちを受け入れる。さすがに手は疲れてくる。

そして、空が少し白んできたころ、5時すぎごろだったかに、それは終わった。

片付けは炊き出し所の人がやってくれるので、我々は街道の屋台みたいなインド料理屋にいって朝飯とする。シンプルなカレーと、インドの小さめのナンみたいなやつ(チャパティ?)。美味い。辛いので、飯が進む。勤労の後の飯はやはり美味い。昨日の残念会とは一転、みなもすがすがしい顔をしていた。

そとは、もう明るく、早朝の出勤や通学の人たちが道を歩いていた。それで、空港まで送ってもらって、帰路についた。

飛行機で席に座った途端、眠りに落ちた。睡眠障害の僕にしては久しぶりの深い眠りだった。はっと目が覚めたら、シンガポールのチャンギ空港へと飛行機が旋回しながら高度を下げ始めていた。人は、なにかを悟ると深い眠りにつけるのだろうか。まあ、功徳が積めたとして100マイルくらいだろうか。でも、なぜか、心地の良い気分だった。托鉢のおかげか。坊さんたちの、いい「気」をもらえたからか。

「11月の奪われた選挙?」。トランプ・バイデンじゃなくて、ミャンマーの2020年の総選挙。NLDが圧勝した選挙に不正ありと軍が介入したのが、今年2月のクーデター。市民は平和裏のデモをしてクーデターに反対の意を表しているが、すでに少なくとも何十人かの命が失われている。

噂がとびかっており、国軍を支持する中国に対して、NLD側を支援するであろう米国の介入があると国内の対立が泥沼化する恐れがあるとか、NLDが長年反政府のゲリラ戦をしている少数民族と反軍政で手をむすぶと長期内戦化の恐れがあるんじゃないかとか。

情報は飛び交い、見通しは混沌としている。警察・軍がひとたびデモ隊鎮圧に実力行使にでれば、何百、何千の命が犠牲となる恐れもある。過去に何回かそんな悲劇が現実となっている。ミャンマー人にきいても、ミャンマー人でも今後どうなるかわかりません、と言う。

たしかに、アルゼンチンやブラジルの南米の反政府都市ゲリラ鎮圧のお題目で介入した軍とその長期軍政の位置づけと、ミャンマーでの状況はかなり違う。ミャンマーでは、国内に独立をかかげる少数民族とその反政府の軍隊、そしてそうした地域がケシの産地のゴールデン・トライアングルにあって反政府軍も資金力を持っていること。軍の存在は、ミャンマーはかつての南米よりも、もっと複雑である。そして南米よりももっと長期化したがゆえに権力構造も歪んでいる。今回のクーデターを軍が当初あくまでも選挙再実施のための1年ほどの治安維持としていたことに希望をもっていたが、刻一刻とその希望が薄れてきている。

今後どんな展開になるのか。悲しいかな、正直、祈る以外に僕にできることはないが、この情報過多の時代、飛び交う情報からデマにおどらされないように気をつけながら、関心を持って動向を見守っていくことくらいはできる。

(2021.3.7 記)


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