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ガテマラからメキシコ 突きつけられた銃口(前半)

物騒なタイトルだが、大昔、学生時代に2ヶ月ほどバックパックで回った中米の旅行記を、記憶を頼りに書いてみたい。

ネタバレをやってしまうと、タイトルが示唆するほどは、手に汗握る、生きるか死ぬかの経験ではなく、無事にその旅行は終えて、別に銃を突きつけられたからその後トラウマになることもなく(そういえば今年トラ年ですね)、つつがなく今まで生きながらえている。

でも、なかなか普通の旅行では味わえない、あの時代の紛争地域である中米の独特の非日常の危なさが満載の旅ではあった。いろいろ怪しい人たちにも出くわした。不思議なことに、緑豊かで美しい中米の風景よりも、ガイドブック的な観光名所よりも、そうした怪しげな人たちとの出会いが今でも記憶に深く刻まれている。

あの記憶の断片はむしろフィクションで背景描写として、内容も目一杯デフォルメして再現したほうが面白いのかなとも思った。しかしながら、たとえば、主人公の日本人学生バックパッカーが80年代の中米の軍隊や反政府ゲリラや麻薬組織やらを相手に大活躍する冒険劇、なんて考えようとしてみたものの、我が想像力の限界、なんともリアリティがなく、やはり、記憶を掘り起こしたノンフィクションの旅のエッセイにでもと思って、令和4年の正月の今日、筆をとってみた。

80年代の中米

source: wikipedia 「中央アメリカ」

80年代後半、ある年の1月半ばのある日。

卒論を2日徹夜して書き上げて提出すると、単位も十分とってあったので学生生活ですべきことはやり遂げ、3月末の卒業式とそれに続く4月からの就職まで2ヶ月あったので、また貧乏旅行しようと思った。バイトでためた軍資金も30万円ほどあった。当時は米国までは大韓航空のロサンジェルス往復便が12万円ほどで最安値だった。

その2年前に、アルゼンチンやペルーなど南米に3ヶ月、その前年にメキシコに1ヶ月ふらふらしていたので、おのずと、興味をそそられた中南米で未踏の地域はその間に存在する「中米」であったが、二の足を踏む理由がちょっとあった。

ガテマラ、ホンジュラス、エルサルバド ル、ニカラグア、コスタリカ、パナマ(強いて加えると英語圏のベリーゼ)が、中米諸国である。ちなみにメキシコは、カナダとアメリカとで「北米」の扱い。

考古学的には、僕が好きな「マヤ文化」も、メキシコのユカタン半島からメキシコ南部と中米のガテマラ、ホンジュラスとエルサルバドルあたりまでスペイン侵略前まで栄華を極めた。なので、それら地域にはピラミッドとかマヤの遺跡がかなりの数存在する。

コスタリカとパナマをちょっとはずして、その他の4カ国を十把一絡げにして歴史をざくりと言うと、こんな感じである。

16世紀以降のスペイン植民地時代を経て19世紀前半に軒並みスペインからの独立を果たしたが、バナナだのコーヒーだのサトウキビだのの大土地所有型のプランテーション経済で、大地主と結託した独裁政権やバナナ利権の欧米諸国の干渉もあり、政治的な紛争がてんこもりの歴史で、プランテーションで虐げられたインディオ系住民や、たびたび起こるハリケーンや地震の被害で、これら中米諸国は中南米でも最貧国の地位に甘んじてきていた。

そんな無茶苦茶な独裁政権が跋扈した中米にも、60年代のカストロのキューバ革命以降、そうした大地主支配に対抗して人民革命を目指した動きがでてくる。

ニカラグアでは1930年代から大地主のソモサ一族が40年以上も国を牛耳ってきていたが、1979年にはサンディニスタ民族解放戦線が武装蜂起して革命政権を樹立。それに呼応して隣国のエルサルバドルでも左翼ゲリラ組織FMLNが反政府武装運動を始めた。アメリカの1980年発足のレーガン政権はこれら動きに警戒心を強めて、ニカラグアでは反革命政府の勢力を支援したり、エルサルバドルでは政府軍への梃入れを実施。中南米は米国にとって大陸のお膝元であるし、特に中米は「裏庭」のような存在とも言われる。

この流れで、1980年代後半には、ニカラグアでは国境では革命政府打倒をかかげるコントラの勢力が結集していたり(後にCIAがイランへの武器売却代金をこのコントラ支援に流用した事件、イラン・コントラ事件が発覚することになるが)、エルサルバドルでは1992年の終結まで7万5千人も犠牲者をだしたエルサルバドル内戦の状態にあった。

旅行にあたり、それなりに情報収集したが、旅行出発までのひとつの結論としては、次のようなもの。

エルサルバドルは内戦なので残念ながらパス、ホンジュラスを迂回して南下。

ニカラグアは面白そうで首都マナグアまで入ってしまえば怖いことはないだろうが、当時、ビザが必要な上に、旅行者に強制的にUS500ドルだったかを非常に割の悪い為替レートでの現地通貨購入が義務付けられていて、それを理由に訪問断念。

どうにかメキシコからガテマラ、ホンジュラスを南下して、あとは行けたら空路でコスタリカかパナマをみてくることにする。コスタリカは、知り合いがコスタリカ人の家族を紹介してくれていたのでその村を訪ねようと思っていた。

今と違って、事前にとれる情報もあまりないし、オンラインで予約できるすべもなく、事前準備はそれくらいで、後は、ざくりと、日本からロサンジェルスまでの大韓航空の往復便をとって、あとは運を天に任せての旅とした。

LAでは、その2年前にボリビアで旅行中の宿で出会った米国人カップルの家に1泊お世話になった(実はその前の初日の晩は彼らと連絡がとれず、LAXで出会ったハリークリシュナの団体の施設に1泊お世話になったのだが、その体験談は別の機会にでも)。

2年前はヒゲもじゃのバックパッカーだったSは、こざっぱりした風貌のサラリーマン1年目になっていたし、ガールフレンドのBとはその後結婚していっしょに住んでいた。

カジュアルなメキシコ料理屋で3人でうまいメキシコ料理を食べながら、いろいろと中米情報を聞く。

「(やっぱり、今、中米はきな臭いよ。敢えて、命のリスクを犯してまでいくほど、アンデスとかと比べると見どころは少ないかもね。1ヶ月くらいふらふらするなら、マヤの遺跡とかも、メキシコとガテマラとホンジュラスくらいで大所はみれるしね)」とS。

奥さんのBも、「(中米の政府軍の住民の人権侵害とか、ゲリラの原住民虐殺とか、ひどい話ばかり聞くわよ。ケン、あなた戦場カメラマンでもないんだし、 curiosity kills the cat 、単なる好奇心だったらやめといたほうがいいわよ)」

「(でも、ガテマラのティカル遺跡はいいよ。あれは絶対オススメ。マヤの遺跡ではあれが一番よかったな。アクセス悪いけど、行く価値あり)」というのがSのアドバイスだった。

それで、とりあえずバスで南下してサンディエゴからメキシコのティフアナ入りして、そこで買った安いアエロメヒコ航空の国内便でメキシコシティへと空路飛ぶ。

メキシコシティは行ったことがあったので、すぐにバスターミナルへ行って、メキシコ南部のチアパスを目指す。

そして、チアパスから国境を越えて、最初の中米の訪問国ガテマラへと入国する。

ガテマラからホンジュラスの首都のテグシガルパへの陸路での南下については詳細を端折るが、霧のかかった豊かな緑の山岳地帯をおんぼろバスに揺られてのんびりと、とくにこれといったハプニングもなく進めた。やはり旅ってハプニングがないと、あまり記憶に残らない。この過去ポストがちょっとその旅程について触れているので、ご参考まで:

謎の弁護士

怪しいな、という人たちが旅に登場してきたのは、ホンジュラスあたりから。

首都テグシガルパの国際空港といっても日本の地方空港みたいな小さな空港でのチェックインでの話。

僕の前に、30代後半くらいにみえるひょろっと背の高い白人のおっさんが、荷物2つと釣り竿をチェックインしようとして、航空会社の係員になにか言われている。おっさんはアメリカ人には珍しく、けっこう正確な発音でスペイン語を話していた。

どうやら、チェックイン荷物は2つまでなのでこれだと3つになって追加料金になるという説明で、それに対して、自分はいつもこの3点をチェックインして問題ないのだがなぜ今回はそうなんだ、というような反論をしている。

僕は大きなバックパックひとつだったので、ちょっと差し出がましいかとは思ったが、口を挟んでみた。

「(すみません。僕は荷物ひとつなんですが、その釣り竿、僕の分にしてもいいですよ)」

これ、今だと絶対やってはいけない話。良い子は真似しないように。

当時はまだ80年代。テロ対策の荷物チェックとか決してうるさくなく、麻薬の問題とかも当時はまだコロンビアとか南米からアメリカへは空輸が中心で陸路で中米を経てというルートではなかったせいからか、メキシコや中米で麻薬がらみのチェックがうるさかったという記憶はない(その後、空輸ができなくなって、米墨の長い国境で陸路スマグルするようになって、メキシコのカルテルとかが急成長していく)。このくらいの「親切」は許されていた時代。

航空会社のカウンターのおばさんはそれを聞くとニコッとして、「(それ、いいわね。あなたそのバックパックひとつなんでしょ?)」

おっさんも、こちらを見て、あっさり、「(じゃあ、それでお願いできると助かるね)」と。

それでチェックインが終わると、おっさんが興味深そうにいろいろと話しかけてくる。最初はスペイン語だったが、こちらが英語をしゃべるとわかると英語になる。

テキサス在住だという。弁護士で、通信関係を専門しているという。中米は趣味で、釣りが好きなので、毎年2ヶ月くらい休暇をとって中米に行っては釣り三昧なんだという。

こちらも自己紹介して、日本人の学生で、中南米研究が専攻で、とくにメキシコ経済とか累積債務問題に関心あるが、2ヶ月ちょっと休暇がとれたのでまだ行ったことのなかった中米を旅行しに来たと正直に事実を言う。

すると、日本人が中南米研究、というのに関心を持ったのか、明るく、愛想よく、いろいろ質問を投げかけてくる。なぜラテンアメリカに関心もったのかとか、どんな国にこれまでいったのかとか。

そんな会話をしていたら搭乗案内があったので機内へと移動したが、チェックインの順番のせいか、僕の席はおっさんの隣であったので、会話が続いた。

機内でビールを飲んだら、さらにおっさんは饒舌になった。

いかにエルサルバドルが現在の内戦状態に陥ってしまったのか、ニカラグアのサンディニスタ革命の背景、なぜ、それら中米の国がキューバのようになってしまわないようにすることが米国の安全保障にとって大事であるか、等々いろいろと話してくれる。

とても情報盛りだくさんの、非常に面白い内容だった。あの地域の30年くらいの現代史が全部頭にはいっている。なにものなんだ?弁護士にしてはちょっと詳しいなあと思った。

飛行機は、ホンジュラスをたった後、ニカラグアの首都マナグアの空港に着陸するが、2時間ほど空港に止まっていただけで(給油だったのか?謎)、降りる人も乗ってくる人もいなかった。そもそも経由便とは知らなかったので、これがニカラグアか!と、飛行機の窓から空港の写真をとったのを記憶している。

飛行機がコスタリカの首都サンホセへと着陸態勢に入った頃、すっかりうちとけたおっさんはコスタリカではどこに泊まるのかと聞いてくる。

まだ決めてないというと、おっさん自身は定宿のそれなりのホテルが予約してあるが、彼が知っているアメリカの国際協力のピースコープ(Peace Corp、ピースコーみたいに発音する、米国の青年協力隊のような組織。ペルー人はこれを地酒のピスコーと駄洒落にする)が拠点にしている安宿があっておすすめだという。彼のホテルへ行く道すがらなので、タクシーに乗せていってくれるという。

いえいえ、そんな申し訳ないと一応断ろうとすると、釣り竿の御礼だという。我が「旅のわらしべ長者作戦」成功。ちょっとしたアクションが次の幸運を呼び込む、いきあたりばったりの貧乏旅行ではありがたい展開。これ、バックパッカーでヒッチハイクとかする人たちには結構起こる嬉しいことなのでは。当然、リスクとは裏腹のものでお勧めはしないが。


宿までタクシー乗せてもらって、おっさんには御礼を言って別れる。宿は5階建てくらいの小綺麗なこじんまりとしたゲストハウスっぽいところで、なぜか屋上に大きなパラボラアンテナがついていたのを記憶している。ちょっと不思議な感じがしたが、まあ、当時は中南米から衛星放送でアメリカのTV放送をみるのがもう始まっていたからその衛星TV用かなと思った。

部屋にはいってシャワーを浴びてロビーに降りると、中米のカラフルな民族衣装を着た、20代とおぼしき黒人の女性がソファに座っていて、ニコッと英語で話しかけてくる。

「(ハーイ、今日ついたのね。私、ステファニー)」
「(ハイ、さっき着いたんです。ケンです。)」

すると、ステファニーと名乗るそのとても感じのいいアメリカ人女性は、いろいろ話しだす。

自分はコスタリカについて2ヶ月目、このホテルは悪くはないわよと。自分は車で1時間くらいの村で、伝統的な織物をいかに商業化して金銭につなげるかのプロジェクトをやっていて、その着ている服はその織物だという。いろいろハプニングはあるけれど、おもしろいわよと。

それで、明るく饒舌にどたばた奮闘記を交えて話してくれた後で、「(ケン、あなたはコスタリカでは何をするの?)」と聞く。

「(えーと、サンホセ探索してから、サン・ラモンという村の知り合いの住所もらっているので訪ねてみようかなと。カリブ海側のビーチとか興味あるけどちょっと遠いかなと思っている」と答える。

すると、とても不思議な顔をして、そして、とたん、笑い出す。

「(あ、あなたピースコープじゃないのね。てっきり別の人と勘違いしていた。今週くる人がいるって聞いていたから)」

そうなんです、単なる旅行者で、釣り竿をチェックインしてあげたら、ここ教えてもらったんですと説明する。

おっとこれで5000字オーバー。前半の、「怪しい話」としては、上述の自称弁護士と、このホテルについて書きたかった。銃をつきつけられた話は後半へ。

さて、この前半での怪しい話、今思うに、彼はおそらく弁護士資格を持った弁護士なんだろうけど、2ヶ月釣りをしに来たというのは嘘で、CIAなのか、CIAとか軍とかに関係しているシビリアンの関係者だと思う。確証はないが、どう考えても、あの豊富な知識は只者ではないし、なにか関係した仕事をやっていて、その諜報関係の仕事の関連で来ていたはずだと思う。これ、旅の後半で、はたと気づいた。

そして、国際協力も、当然、普通なら、援助機関の人たちは援助の活動をしている人たちがばかりだと思うが、紛争地域となると、なんだか諜報機関とのいろいろな協力体制があるんではないかなと、これはかんぐり。確証はないが。あのホテルのパラボラアンテナ、場違いに立派で大きかった。

(後半へと続く)

後半目次(予定)

サンペドロスーラからティカル遺跡へ

ガテマラからメキシコへ





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