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ピアノの調律を聞きながら

「突然ですが、明日伺ってよろしいですか?」

昨日の夕方掛かってきた、一本の電話。
私は、ここしばらく、この電話を待っていた。

先ほどから、ピアノの調律師さんが来てくれている。
昨日の電話は、今日調律に来ていいかどうかの確認の電話で。

今、来てくださっているのは、ベテランの男性の調律師さん。
意外にピアノは、いろんなところにたくさん置いてあるもので、学校のピアノ、公共施設のピアノ、ジャズバーのピアノ、コンサートホールのピアノと挙げるとキリがない。
我が家に来てくれる調律師さんは、県内の多くのピアノの調律を任されてて、とても忙しそう。その隙間を縫って来てくれるので、いつも訪問が突然なのだ。一応、私が平日に仕事に出ていることを考慮して、土曜に来てくださる。

我が家のピアノは、「棚ぼた」で手に入れた、なんとも幸運なピアノだ。
10数年前、うちにピアノなんてなかったのに、なぜか始めてしまったピアノレッスン。
とりあえず、練習用にヤマハの電子ピアノを買った。
レッスンに通うようになってしばらくは、本物のピアノを弾くのを楽しみして、レッスンに通っていた。
「本物のピアノで練習したほうがいいですよ」
と、ピアノ経験者からアドバイスされることがしばしばあった。
確かに、鍵盤の重さやペダルの響きは、電子ピアノとは全然違う良さがあった。
いつか、本物のアップライトピアノが欲しいと思っていたが、中古のピアノでも、それなりの値段はする。
ピアノのレッスンもいつまで続けられるか分からない。娘が5歳になり、ピアノを始めたけれど、これもまた、いつまで続くのやら。
そんなふうに思って、なかなか買うに至っていなかった。

「ピアノいらない?」
親戚から突然、話を持ちかけられた。
なんでも、知人が引っ越しをすることになって、引っ越し先にピアノを持っていけないので、貰い手を探しているという。
「もう古いやつだし、引き取ってもらえるだけでいいから、代金は1万円でいいって」
「もちろん、もらう!」
というわけで、たった1万円と菓子折りひとつと引き換えに、あれよあれよと我が家にピアノがやってきた。
もちろん、知人宅から我が家までの輸送費にいくらかかかったけけれど。
タケモトピアノに売った方がずっと高く売れただろうにと思うのだけど、譲ってくださった方は、なぜこんな二束三文でピアノを手放したんだろう。
いずれにしても、私たち家族には夢のような申し出だった。

「ずいぶん、音が狂っていますねぇ」
ピアノが来た当初、担当してくれていた若い女性の調律師さんは、電話越しに、我が家のピアノの音の狂いっぷりに驚いていた。
素人でピアノ初心者の私には、その辺がよく分からなかったが、長いこと調律されていなかったせいで、ピアノの弦はのびのびになり、まともな音を鳴らせなくなっていた。
一度目の調律は困難を極めていたようで、時間がかかっていた。何度も何度も音を確かめながら調律してくれていたのを覚えている。
長いこと調律していないと、一度調律しても、またすぐに弦が伸びてしまうらしく、しばらくは半年ごとに調律してもらうことになった。
数年かかってやっと「もう1年に1度で大丈夫」と言われるようになった。
ピアノの調律が1年に1度になったころ、来てくださっていた若い女性の調律師さんは、ご結婚されご主人のいる関西へ引っ越された。
あの時の調律師さん、お元気かな。関西でお仕事されているのかもしれない。

以来、どこかのお宅でホコリをかぶっていたピアノは、我が家で大活躍してくれている。
夫の書斎に、どんと置かれたピアノ。夫には「もはや、僕の書斎じゃなく、ピアノ部屋だ」とぼやかれるが、家を新築した時には、まさかピアノを置くなんて夢にも思っていなかったのに、その空間はピアノを置くためにあるみたいにぴったりだから、もうピアノ部屋といわれても仕方ない。
「ピアノにも寿命がある」と調律師さんはおっしゃっていたが、今、このピアノがなくなっても、我が家にピアノを買う余裕はない。
だからこれからも大事に、大事に使っていこうと思う。

あ、調律が終わったようだ。
ヨーロッパの街を流れる川のような美しいアルペジオが聞こえてくる。
最後に、音の確認をされているようだ。
このアルペジオが、うちのピアノが奏でる一番美しい旋律だったりするのが、なんともピアノに申し訳ない。


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