ありがとう、さようなら、私のプリウス

7年8ヶ月ぶりに、車を買い替えた。

買ったのはトヨタのAQUA。ボディカラーは赤。
前回のプリウスを買った時、ボディカラーを赤か黒かで迷ったんだった。
夫に「家族で出かけるときは、僕が運転するんだから、赤はちょっとなあ」と言われたので、黒を買った。

「もう、絶対、黒の車はやめときな!」
私が事故にあったと話したら、実家の母に強く忠告された。
実家の父が以前乗っていた軽自動車が黒で、その車も私のプリウスと同じように、横道からきた車にぶつけられ廃車になった。
以来、父は明るい空色の車に乗っている。

実を言えば、「黒くて見えなかった」という理由で、3年ほど前の雨の日にも、バックしてきた車にぶつけられたことがあった。
だから「もう黒はやめよう」と、私も心に誓った。
ネットで調べたり、ショッピングモールや街ゆくいろんな車を眺めたり。自分が赤やオレンジのAQUAから降りてくるところを想像して、どっちがしっくりくるかなあなんて考えて、ワクワクした。
約8年ぶりの新車に浮かれ気味。そして、今回は赤に決めた。

販売店で、今回の購入予算を告げると、ちょうどお得な特別仕様車があると教えてくれた。カーナビ、安全サポート、ドライブレコーダー、ETCといろんなオプションが追加され、自分仕様の新しい車ができあがった。予算内にも収まって、ほっと一安心。

契約のための、いろんな書類に署名し、印鑑を押していく。
売買契約書、車庫証明の委任、ローン契約、自動車保険の契約の変更……
「納車は、8月上旬だと思います」
数時間ほどで、私は新しい車の所有者になった。

「前のプリウスは、どうなりますか?」
気になって聞いてみた。
「一応、下取り価格を査定しました」
販売店の営業さんは、ほんのわずかな金額を提示した。派手に壊してしまったから仕方ない。それでも新車の足しになると納得。
そして、営業さんが一枚の書類を出した。
「ここに署名をしてください」
それは、壊れたプリウスを、買取業者に引き渡すことに同意する書類。
サインすると、いよいよプリウスとはお別れだ。

「では、ルミさんの私物が残っていないか確認してくださいね」
しとしとと降る雨の中、壊れたプリウスのところへ向かった。
向こうの方に、黒い塊のような車体が見える。
事故のせいで、右タイヤの上が、まるで体をえぐられたみたいに、むき出しになっている。
それ以外は無傷。もとのまま。
ぶつけたところが黄色く見えた。そう言えば、事故の相手方の車は黄色だった。
「あれは、相手の人の車の塗料かな?」
近づくと、それは錆びだと分かった。壊れて塗装がハゲたところが、たった2週間で錆び始めていた。
大事に乗っていたのにな。
ちょっとキズができたら、それなりに修理してきたし、黒いから汚れが目立つので、洗車もまめにしてた。シャンプー洗車じゃなくて、毎回ちょっとお高い「ワックス洗車」にしてたのに。
「きれいに乗ってますね」と褒めてもらったこともあった。
なのに、あの一瞬の出来事で走れなくなって、もう朽ち始めている。

車の中の私物は、事故の日にだいたい回収していたので、残っていたのはティッシュの箱と、カーオーディオに差し込んだ音楽用SDカードくらいだった。
事故の当日は、事故の衝撃で電源が入らなくなっていたので、SDカードをカーオーディオから取り出せなかった。
「今は、電源が入ると思いますよ」
営業さんが、プリウスの電源を入れてくれた。カーオーディオを操作して、SDカードを出してくれた。

ふと、聞き慣れた音がする。あれ? どこから?
流れてくるのは、私の好きな嵐の曲「僕が僕のすべて」
音は、プリウスのスピーカーから聞こえていた。
SDカードはもう取り出したはず、CDだって入ってない。ラジオでもなさそう。
ああ、そうだ。
プリウスと私のiPhoneSEは、Bluetoothで繋がっていたんだった。
事故の日も、iPhoneに入れた「嵐ナンバー」と名付けた、自分のお気に入りの嵐の曲のプレイリストを聞いていたんだった。
もう走れないのに、私のカバンの中のiPhoneと繋がって、まだ健気にも音楽を聴かせようとしてくれていた。
プリウスは、最後の最後まで「私の車」だった。

この7年8ヶ月、朝も晩も一緒に通勤した。
夜遅くまで残業して、くたくたになって、プリウスを置いてある駐車場まで、重い体と暗い気持ちを引きずって帰ったことは数しれない。
黒いプリウスは、真っ暗な駐車場で、影のようになって停まっていた。近づくと「おかえり」と言わんばかりに、ルームライトがパッと点灯して、あたりを照らしてくれた。その明かりに、何度ホッとさせられただろう。
高速道路に乗るとき、アクセルを踏み込むと、車体が地面に吸い付くような感覚になるのが好きだった。スピードが出れば出るほど、重心が安定して、運転しやすくなるのも、かっこよくて好きだった。
大好きな嵐の曲を流して、大音量で歌いながらご機嫌で走った日もあった。
時には、一人になって泣くために、車を走らせることもあった。

最近の車は、事故の衝撃を吸収するように、車体がすぐに壊れるようにできているそうだ。私のプリウスもそう。私や娘を守るために、自分の体を犠牲にしてくれた。おかげで、大した怪我もなく、元気に当たり前の生活が送れている。

こんなにしちゃって、ごめんね。

新しい車を手に入れるのは嬉しい。でも、それは、前の車との別れでもあって、ともに過ごした時間を思い出さずにはいられない。

営業さんが電源を切ると、音は鳴り止んで、あたりが静かになった。
これで本当にお別れ。
今日までありがとう、プリウス。さようなら。
どうか、どこかで、誰かの役に立ってくれますように。

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