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原宿レオンの日々

 1969年の暮に東京移住を始めた僕は、自由が丘に最初のアパートを借りて暮らし始めた。その後いろいろな事情があって武蔵小山の下宿、蛇崩の友人宅、さらには国立谷保天神裏のヒッピーアパートと、点々と住いを変えた後、原宿神宮前のアパートで、先輩の河合さんたちが共同生活をしていたアパートで暮らすことになった。

 このアパートは梁山泊的なところで、ファッションの世界の河合さんを筆頭に、潜水夫の浜ちゃん、美容師の香取君、写真家のマコト君とコピーライターの彼女オエちゃんなど、様々な人々が狭いアパートですし詰めになって暮らしていたのだ。

 そこへ関西のほうから、アーテイストにしてロックコンサートのプロデューサーの木村英輝さん、そしてまだ十代だった桑名正博君などが東京に来ると泊りにやってきたから、いつもアパートは賑やかで、様々な話題にあふれる世界となっていた。

 桑名君が来ると僕のギターで、エルトン・ジョンの“ユア・ソング”やザ・バンドの”アイ・シャル・ビー・リリースド”などを、よく一緒に歌ったものだった。

 でも狭いアパートでは仕事がしにくいので、その頃よく通っていたのが、表参道と明治通り交差点にあったセントラルアパート一階の、今や伝説の喫茶店となった“レオン"だった。

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 セントラルアパートにはその1973年頃、雑誌『話の特集』の編集部や、写真家の鋤田正義さん、浅井慎平さん、そしてひところは水俣のドキュメンタリー写真で有名になったユージン・スミスさんのオフィスがあり、そのほかにもたくさんのデザイン事務所など、横文字ビジネスのメッカとなっていたものだった。

 また音楽仲間のプラスチックスというグループの、中西俊夫クンと佐藤チカちゃん、立花ハジメ君などともよく出会ったものだった。

 そこの住人をはじめ、当時の原宿の独特の雰囲気を求め、様々な人々が”レオン”にやってきては、友人やビジネスの相手などとテーブルをはさんで、情報を交換し、また新しいファッションの流行などを話題に、人間関係の輪を広げていったものだった。

 僕はユージン・スミスの助手を務めていた石川武志君とも仲が良かったので、スミスさんがアイリーンさんと結婚式を挙げた日に参列し、羽織袴姿のスミスさんと、文欽高島田のアイリーンさんの写真を撮ったのだが、度重なる引っ越しのせいで、その写真が残念ながら目下行方不明となってしまっている。

 またレオンにもよく顔を出していた西丸文也君というカメラマンが、ジョン・レノン、ヨーコ・オノ夫妻のオフィシャル写真家となっていて、ある日レオンでコーヒーを飲んでいたら、レノン夫妻と西丸君が外を歩いているのが見えたことがあった。1972年頃の表参道はまだ牧歌的な雰囲気が漂う界隈だったのであった。

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 そのレオンで僕はよく原稿を書いたものだ。

 レオンでは無料で一杯のコーヒーのお替りができたし、昼時には厚切りのトーストにたっぷりのバターとイチゴジャムを塗って、コーヒーとともにいただきながら、せっせと原稿用紙に文章を連ねた。

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 レオンで原稿を書いている人が他にもいて、その一人が日本のファッションスタイリストの先駆けとなったヤッコさんこと高橋靖子さんだ。彼女を通じて鋤田さんとも知り合い、そして彼らが手掛けたデイヴィット・ボウイのアルバムカバーの撮影にも参加するという、またとないチャンスにも恵まれたのだった。

 ボウイとは2度夕食を共にした、一度目は撮影用の衣装を手掛けた山本寛斎さん、鋤田さん、ヤッコさん、そして当時人気ナンバーワンモデルだった絶世の美女山口小夜子さんと共に、裏原宿の地下にあった居酒屋で、もう一度は南青山のしゃぶしゃぶの店で、ボウイ、イギー・ポップ、鋤田さんと共にだった。

1946年の、同い年生まれのボウイともいろいろと話をしたが、彼は大スターなのにとても気さくな人物だったのが印象的だった。

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 2019年にフィレンツエに滞在中、鋤田さんが撮影したデイヴィット・ボウイの写真展が開かれるのを知り、初日に見に行くと、懐かしい写真がたくさん並んでいて、撮影の日の記憶が鮮やかに甦ってきたのだった。

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