思うこと94

 私はかつて「決める」ということが不得意だった。大学受験や新卒での就職を見送ったのも、早々に決意しなかったからではないか。受験をするかしないか、就職をするかしないかそこからもう判断が遅かった……

 …と思ってはいたが、しかし最近になって、実はそうではなかったのでは?と思い始めた。

 仮に何らかの求人があったとして、私も多少その仕事に興味があるとする。
その際もし私の頭に「不安」が浮かぶとしたら、「仕事が合わなかったらどうしよう」とか「社員さんたちと気が合わなかったらどうしよう」などではなく、「その会社にいる自分を全くイメージすることができない」という「不安」なのだ。あるいは、「その会社にいる自分に異常な違和感がある」と言えなくもない。

 しかしながら「そこにいる自分がイメージできない」からというワードは、なんとなく甘えのようにも思える。やりもしない前から何を言っているんだ、的なことを囁く私も確かに存在するのだが、結局今までの人生の中で、最終的に私は「イメージできないもの」を容赦なく切り捨てている。その都度その都度で判断を悔いることはあっても、現在から総合して振り返ってみると、そんなに悪いことをしたようには感じないのだ。

 判断が遅いのではなく、「イメージできないもの」を見送っているだけで、「そうでないもの」を見つけた時は、割合素早く行動しているのではないかとさえ思う。

(不安が浮かばない時は鮮明に「そこにいる自分」がイメージできているのかと言ったら、そんなことはない。もはやある程度「無心」になっている。その無心の中で「ちょっとやってみるか」という背中を押される感覚があり、決めてしまえばあとは転がるだけだ。なるようになる、と無駄にポジティブ。故に対になるのは「イメージできるもの」ではなく、「イメージできないもの以外の『そうでないもの』という意味合いになる。)

 世の中には莫大な量の物事がある。生きている間にその全てに携わる必要などないのだし、別段そんなことは誰も、私さえ望んでいない。ならば腑に落ちないことにわざわざ挑む理由もない。挑めなかった自分を悔いることはないし、また再び「そうでないもの」と出会うまで元気に生きていたらいいじゃないか。

……と、自分を励ましているのか慰めているのか分からないが、久々にそんなことを思う一日だった。

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枕木きりこ

知的欲求を古本屋や図書館で満たすケチ女。ドケチのきりちゃん。書くことを続けようという鍛錬中。 写真を撮ったり、脚本を書いたりもしています。南米文学の虜。

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