地点 『忘れる日本人』


劇団・地点の『忘れる日本人』を観る。

 謎の大きな船の周囲をちょこちょこと動きながら、登場人物たちが叫ぶ。
時に周囲の壁を触り、静かに語る。四方にあるロープの境界を越えると、
その先は途方もない海だ。海へ出てしまうと「人」はただふわふわと漂い、命を手放したようにさえ見える。

 "繰り返さない"から"忘れない"へ。アーカイブされる悲劇。花は咲く、と高らかに歌う。「何処の国の話だ!」、と日の丸をつけた男が言い放つ。

 物語、というかこの光景は、全ての人物の相関図は曖昧に、会話らしい会話も乏しいままに終わる。誰に何を訴えかけているのかも分からない。けれども、確実に観ている者に爪痕を残す作品だろうと感じるのは、作中で明確には指摘されないものの、国民であれば誰しも(程度の差はあれ)経験者である3.11の震災を背後に匂わせているからだろう。

 『忘れる日本人』は、「忘れること」を責めているのではない。本来忘れてはいないはずのものをまるで忘却したかのように書き換えてしまう、
「記憶の仕方」を問うている。…と、私は思う。

 3.11以後、震災や原発というテーマを前に感じる違和感、同じ言語を話していながら確実に真意の伝わっていない絶望、一定の時期がくれば「◯◯を忘れない」と他人から声高に押し付けられる疑問、あらゆる不快感を「不謹慎」の言葉で一掃する横暴など、様々な感情の困難が立ちはだかるようになった気がする。
 一体誰のための、何のための圧力なのかさえ分からなくなった息苦しさは未だに存在していると感じる。

 そんな中である者は婉曲、ある者は過激、ある者は沈黙する。

 こうしてごった返す感覚や感情の空間を、最も大多数が納得できるように美しく飾られた言葉たちは堂々とその有象無象の中に掲げられて行く。その神輿の中に本当に神がいるのかどうかを問う者は、きっと罰当たりとして始末されてしまうだろう。

 それは真っ当な方法なのだろうか。いや、私はそうではないと思う。

 用意された実体のない存在に陶酔するよりも、もっと自分の感情や記憶と向き合い、そして理想を言えば、できるだけ他者と自分が分かり合い、本来の「会話」を交わすことこそが最も重要なのではないだろうか。(これは震災に限らず、未来永劫人間にとって大いなる課題であると思いさえする。)

 私たちは一人一人異なった人間であるが故に、各々があらゆる感情や気持ちを有して生きている。全員が明確に、論理的に、全てを分かりやすく他人に伝えることは容易ではないし、とはいえ全ての人間が同じように共鳴し共感することが目的でもない。

 そういった「困難」は今もあらゆる場所に横たわっている。だからと言って全てを放置し、まるでなかったことのように装い、「忘れる」ことを選んではならないのだ。






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ところで印象に残ったシーン。静まった船の上で、「家族は、いないのか」と唐突に放たれるワードと、続いて女性の口ずさむノスタルジックな歌。
前後の脈絡もほぼ分からないままに、急に胸を突く一瞬の衝撃。なるほど、演劇はこういうことがあるから面白いなあ、などと思う。


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