三流映画よりもつまらない私の修羅場

お久しぶりです、少女Aです。
みなさま、いかがお過ごしでしたでしょうか。

生活の隙間で たまにふわっと誰かのことを想い浮かべる、そうすることで自然とお互いの労をねぎらい合えていたらいいな という気持ちで過ごしています。

早いことで…もう年末ですね。こちらは先週から雪がドッと降り積もり、すっかり雪景色です。わたしはこの街に訪れる冬という季節がたまらなく好きでして、ハーッと吐く息や積雪の白さが光を反射させるレフ板となり綺麗なものをより美しく映し出してくれます。そんな光景を眺めれることが、この街のいいところだと今冬も実感しているところです。

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時間が解決してくれたとは思わないのですが、この2年間の恐慌した社会の滞りもやっと流れはじめたように思います。二年の歳月があれば色々出来るはずだったこと(自己の成長や失った行事)に嘆きそうになるけれど、来年からは倍速で人生を取り戻すつもりで 何か1つ 強固な目標を掲げてみようかな、とか思ってみたりしています。まだまだ本調子ではないけれど、少しずつでも新たなものを吸収したいですね。
わたしの過ごしたコロナ禍はというと、前回(と言ってもかなり前になりますが)ブログに書いた通りで。昨年の晩夏に頭が破裂してからはアナログな生活を続け、飛び散ったものを手繰るように集めていました。停滞した時間を過ごしていたわけです。

伝わらない文章になるくらいなら書かない方がマシという考えを持っているので、なかなかブログも書けませんでした。けれど、未来への戒めとケジメ的な意味合いも兼ねてここに書いてみようと思う。長文ですが、そんなこともあるんだ、くらいに読んでもらえたら。。

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混乱当初のことを思い出すけど、今でもなかなか整理ができない。迷惑をかけた人には何度謝っても謝りきれないし、もう過ぎたことだよ と笑って小突かれることで 許された気持ちになっているに過ぎないのかもしれない(前置き)。
多分わたしは自分でも気付かないうちに状況に満足できていた、恨みながらも心のどこかで夜職をして築いてきた環境に自身の居場所のようなものを期待していたんだ。長年やってきたという理由で、村社会の一員かのような気持ちでいた(うぬぼれかもしれない)。詳しいことはここでは書けないけど、、強い怒りが沸いた。まさか自分が短気を起こすとは思わなかったけど、人に暴行し、激しく罵っていた。そして同時に諦めのような気持ちを抱いた。今まで生きるため,こんな所でも必要とされるために必死にお勤めをこなしてきたことを思うと本当にやり切れなくなったからだ。ぽっきりと折れてしまった。それでも外道なことをしたんだ。きっと犯罪者と同じ心理状態だったけど、咄嗟に選んだのは自死。国道に飛び出すも死ねず 取り押さえられ失神した。あの日あの瞬間から、わたしは人間ではなくなった。あんなのは人間の気持ちではないからだ。

以降、精神的なショックにより、まるで人間の形をした植物となっていた。ほんの数分の出来事で人間ではなくなってしまったのだ。徐々に黒目が戻ってくるまで、1つ おかしなモノを見た…脳が幻を映していたとしか表現できないが、昏睡の中、おかしな情報が映像として流れ込んできたのだ。それは失神から目を覚ますとカラダが自分のものではないような感覚があり、意識は幽体離脱かのように客観的(神の視点)にあった。おそらく部屋の天井付近からベッドに横たわる自分を他人事のように見下ろしている。しかしそこに映る自分は生物ではなく、ただのタンパク質の塊だった (そのようにしか認識ができなかった)。わたしはそのタンパク質に向かって自分の名前を呼んでみたが、声が届かないのかピクリとも動かなかった。かなしい気持ちになったが、このまま目を覚さなければいいのにともぼんやり思っていた。自分に合ったマヌケな死に方だと思ったからだ。そうしていると視界がぐるんぐるんと歪み、意識が遠のきながらまた昏睡へと沈んでいった。次に目ヤニで塞がった瞼をどうにか持ち上げると、現実社会に呼び戻されていた。死んでいなかったことや知らないベッドにいること、わたしがしてしまったことを思い出しわんわん泣いた。こんなくだらない人生も含めて、すべて夢であってほしかった。

一時は運ばれたが、連絡を受けた母親が入院を拒否したので家に戻ってこれた。ずっと泣いていた。わたしは自身がそのような状態にもかかわらず、それらの類の薬剤を自ら服用するということに否定的だった。服用して一時的に穏やかになった自分の言動にも、服用を中止したあとに訪れる絶望感にも、どこか疑問を感じるからだ。症状が緩和することよりも薬がもたらすストレスに耐えられない。元から抱えていた根本以外の問題ごとをひとつ多く抱え込まされたように思えて、それが煩わしく、今回もやはり少し落ち着いたあと勝手に服用をやめた。お医者さんの言うこともわかる、でも、そもそもの根底に話を聞いてほしいだとか理解してほしい助けてほしいなどとは思えないし、つらいと一言で括れるような物事でもない。ただ、ある日突然、理性が吹き飛んだので半強制的にそうゆう場に運ばれてしまっただけだった。気狂いのように暴れておいて何でもないことにしてしまえるとは思わないけれど、今までだって真っ黒な感情と仲良くやってきたんだ、そっとしておいてほしいという気持ちが大きかった。陰な感情もわたしを構成していた。ソレがいなくなることで幸せになれるわけでもない。

それからの日々をリハビリと呼んだ。昏睡中に幻を見てから脳が急停止してしまったのか、体を動かすことができない(麻痺的なことではなく無気力だった)ので、だらんとした植物の状態から抜けるのは時間がかかった。1日のスケジュールとしては大半をボーッとした時間に当てるのだけど、体が動かない分、思考するようになったので 生まれてからの出来事を1つ1つ思い出しては紙に書き残した。一番最初の記憶から学生時代、いじめっ子のフルネーム、好きだったヒトが教えてくれたこと、魚へんの漢字を覚えているだけ書く。ありとあらゆることを書いた。書記をつけるまで結構忘れていたことも多かった。人はなぜか悲しいことばかり鮮明に覚えているモノだけど、なんで忘れていたんだろうと思えるような嬉々とした出来事も思い出すことができた。少しの幸福感を抱いて、自分が徐々に戻ってきたように感じた。スコーンと抜け落ちたモノを手繰りながら2〜3ヶ月もすれば手足が生えて自立歩行するようになった。まだまだケダモノだけど、身の回りのことができるようになった状態で去年は年越しができた。意識的に電波に弱くなっていて、携帯やパソコンを触らなかったことで連絡を途絶えて迷惑をかけた人達にお詫びをした。回復に努めた。

体力が落ちていたので散歩をよくした。ススキノから15分も歩けば、豊平川(とよひらがわ)という大きな川があり、わたしはこの川が好きでよく歩いて行った。天気の良い日は水面がキラキラと反射し、美しく、何時間でも見ていられた。rikoさんが踊ってくれた「ぐるんぐるん」という曲のミュージックビデオの現場も実は豊平川のサイクリングロード。人の手で着色された緑だとしても、昼間は住みついた鴨の夫婦が日向ぼっこをしていたり、野鳥が飛んでいたり、カラスも人間と同じように腰を下ろし川を眺めていた。この川の水が札幌市民の生活水となり恵みとなっている、わたしの体もこの水でできている、そう思うと水道水もおいしく感じられた。母なる川はわたしの気つけ薬となり、都会の雑踏を忘れることで回復していった。

この川が生まれてくる場所へ行きたくなり、定山渓(温泉街)まで足を運んだ。鬱蒼とした山の麓にある一番奥の橋まで歩いて、ミストを全身に浴びた。昔アイヌの民はこの川を「暴れ川」と呼んでいただけに とてつもない濁流で、もし落ちたら自力で這い出ることはできそうになかった。きっと一瞬で死ねるだろうけど、ここまで人間に戻してくれたのに申し訳ないと思った。ジブリで見た森が自然なわけではない、本来はもっと地味なものだ。その地味さに神秘を感じられたし、とてもいい気持ちになった。いつか川に恩返しをしなくてはならないと感じている。

ススキノに戻り、自分の身支度を簡単にする。全回復しないまでも、やはりわたしは夜職へ戻った。正直いい仕事ぶりではなかったけど、生活は待ってくれないので労働を重ねた。どんなに困窮しても大人になれば仕方のないことが沢山ある、現実を受け止めなければならない。こうしか生きてこなかったし、残念ながら他の退路も思い浮かばない。ただただ繁華街がぽっかり口をあけ、おかえりと飲み込んでくれた。ぶっ壊れたのが原因だとしても、約半年間も休ませてもらったことに感謝しなくてはいけないのかもしれない。また飼われたメス豚のように今日まで働いている。いまだに人間には戻れていないのかもしれないし、とうに人間ではなかったのかもしれない。それでもわたしは生きているし、嵐の中にいる。オンナとしての賞味期限が刻々と迫る、残りをどう生きようか考えなければならない。今まで何度と人間に裏切られてきた、それでも信じてしまう。そうゆう話。

…クリスマスになんちゅーこと書いてるんだと、シラフに戻ったのでここで終わります。どこかの誰かさん、わたしの無事を祈ってくれてどうもありがとう。感謝して生きていくよ。


少女A



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