泳いだままに

昨日は、中高の同窓会(と言っても都内にいる数名での集まり)だった。私はあんまり同級生と会わない(みんなもきっとそう)なので、とても久しぶりの人もいたりして少し緊張した。

友達の中に二人、ロースクールを出て今法律関係の研修?を受けている人がいた。
今後、裁判官・検察官・弁護士という裁判所を舞台に働く人たちが、3つを順番に体験したり、試験を受けたりするらしい。

その試験についての話をしている時、3つの仕事でそれぞれ内容が全く違う、みたいな話をしていた。
「それって、視点が違う」ってことだよね。と言うと、「まさに!それ!」と言っていた。

私は、ある例題(例裁判?)に、3者で意見があり、矛盾点があるのかと思って聞いたみたけれど、それはないらしい。あればいいのに。

なんかそのことがすごく心に残っていて、考えている。
1つの物事に対して、3つの視点があることが自明。それありきで話が進むなんて、なんて平等なんだろう、とか語彙力が追いついていないけれど感じる。

今話題のフォレンジック・アーキテクチャも、法律関係の人も含まれている。多角的(プレイヤーだけでなく、メディアも)に物事を見ることは自明な分野であり、それが矛盾していることも受け止められる耐性がある。
なんとなく、フォレンジックアーキテクチャに対して、硬くて複雑なイメージがあったけれど、とてもおおらかな態度を感じ始めている。

矛盾は、真実と嘘の間ではなくて、真実のようなものと真実のようなものと真実のようなものたちの間で起こっていることだと、心に置いて、泳がせておく。

建築も、立場や視点の選択によって、面白くなったり発展したりする。
複数選択すること、できれば矛盾する複数を選択することで、泳ぐ魚を増やすことができるのではないだろうか。
泳ぐ魚が増えると、いつの間にか新たな生態系ができるかもしれない。

つまり、水槽の環境を整えることが、建築のできることであって、そこからどんな生態系が作られていくのかが未来。みたいな。
その時矛盾は無くなってはいけなくて、バクテリアのように生態系を変化させるエンジンになっているのかもしれない。

なんだか、いつも言葉は違うが、同じことしか言ってない自分に少しイライラするなー少し今までの作品も絡めて話せるようにしたいな。

こないだ知り合った人の作品だけれど、芸大の油画博士過程の新井さんとそのパートナー、ニナの行なった、中之条ビエンナーレの作品を紹介して終わりにする。

水道すら何にもない空っぽの空き物件に2人のアーティストが住み、街の人が色々なものを貸してくれる。それと引き換えに、2人ができることを返す。その単純な繰り返しによって、生活に不自由のなくなった後にも、コミュニティスペースのように人々が集う場となった。
一見とても単純なフレームワークに見えるが、1ヶ月の滞在後も二人の活動が住人によって引き継がれたと言うのが素晴らしい(その1ヶ月後に終了)と思った。

初めから、そのような変化がもたらされることは想定していなかったと思う(確認し忘れた)けれど、自然にみんなの心と体を動かして、新たな関係を生ませている。
この場合の、矛盾とは何か、と改めて考えると、「フィクション」があげられると思う。

この2人はそんな生活をしなくてもお金を使えば生きていける。それはビエンナーレの作品であることで守られたフィクション性として、そこにずっとある。
みんなそのことを頭の片隅に置きながら、おままごとのような気持ちで、且つ必死に2人の生活に足りないもの、あったらいいと思うものを考えている。
いつの間にか、飽和(生活最低限として)してしまったあとは、そこにあるお茶をみんなで飲み、お菓子を食べ、団欒し、バーベキューをする。いつの間にか主題(二人の生活の構築)は消え、その場に来るのが目的になっている。

ビエンナーレ期間が終わったあと、今彼らにとっての矛盾はどこかにあるのだろうか。自分たちの街について(中之条は、過疎化が原因でビエンナーレが行われている)考えるための矛盾を見つけ続けているんだろうか。。一度も行ったことがないので、次回は行ってみたいな、と思う。

ビジュアライズも美しく、少し嫉妬をしてしまいそうになる活動だった。

(うまく、ビエンナーレの話と矛盾の話が接続しなかったのでもう少し考えたい)