門脇邸見学|田中義久×中山英之対談

一昨日の午前、少し雨雲が漂う中、最近できた門脇耕三さんの自邸に伺った。

初めてこのプロジェクトを知ったのは、二年前のちょうど今頃だった。私の卒業制作を話をする機会があり、そこに門脇さんも同席されていて、自邸のプロジェクトと、私が描いていたアクソメ図と近いものを感じ、話をしていただいたことを覚えている。

しかし、こんな建物がどのようにして現実にできるのか、想像が及ばない。いつかきっと見てみたいと思っていたプロジェクトだった。
そんな中、門脇邸に知人が訪れるというので、勢いでお願いしてみたところ、快く応じていただいた。

2時間ほど見せていただいたあと、家に帰ってじっと思い出しながら考えたことを書いてみようと思う。

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門脇邸を訪れる前日、母校で建築家中山英之とデザイナー田中義久のトークを聞いていた。

takeo paper show での協働をきっかけに行われたトークで、互いのデザインに対しての態度を聞けるなんとも有意義な時間だった。


そこで一番印象的だったのが、中山さんが田中さんに対して

「田中さんの作品の中には、生態系がある」と言ったことだった。

「大きな還流のなかの結果」ともどちらかが言っていた。


それに関して、施設を新しくつくる際の、サイン計画やロゴ、カーテン、家具と言ったいわゆる建築よりも小さいものが、後から発注や計画が行われることに対しての疑念が話題に上がった。

それら小さいものは建築と連動して、その施設空間を作り上げていくものである。だから、できれば初めから、それら全てを生態系として考えたいという話だった。

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余談だが、建築の教育現場でよく言われる「コンセプト」という言葉に、私は違和感を抱いている。
コンセプトから逸脱すると、それは良くない案とされ、もしかしたら正しくない、とされるのかもしれない。

五日前のことになるが、熊本に旅行中、散歩の休憩に熊本県立美術館に訪れた。前川國男によって40年ほど前に建てられた建築だった。

ちょうど閉館前、展示を見終わった人や、私同様に休憩する人がおり、賑わっていた。
中央の吹き抜けは10mほどの高さのがらんどうで、几帳面(と言っても計画的ではない)に並べられた椅子とピアノ二台とテレビがあった。

私は壁に沿って置かれた椅子に腰掛けて、がらんどうをぼうっと眺めていた。
とても居心地が良かった。


現在のこの施設の空間は、建築の計画や意匠・家具の配置・人の振る舞い・展示内容が生態系をなしているように感じた。
先ほどの例とは違い、生態系が始めにあるのではなく、時間をかけて作られたと言えそうだ。前川國男の設計が、そのきっかけを与えていると思われるが、目に見えるガイドラインや、言葉にできる共通点はない。

その時、「コンセプト」が重要ではなく、だからと言って、何も繋がりがないことも良くない、そんなことを表現できる言葉は何だろう?と考えていた。


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生態系、この言葉が今とてもしっくりきている。


中山さんと田中さんのトークに戻るが、田中さんが自身の作品紹介にのせて姿勢のようなものを話していた。

(記憶なので言葉選びには誤差あり)

「デザインの歴史を振り返っていたら、いつも体制と反体制があり、そしていつの間にか反体制が体制になり、それに対する反体制ができ、、といって常に回っていることに気づいた。」


これは建築でも言えることで、常に「新しい」とは何かを宣言しながらも、皆の頭の中にはだんだんと強固な二項(三、四項)が矢印でぐるっと繋げられる図が浮かんでいる。

そして氾濫する「新しい」というワードに対する嫌悪感まで抱くようになってきてしまった。何が新しいのか、あの時代のアレと同じじゃないのか?そんな粗探しで批評をしあい、私はそれに対し、ぐるっと繋がれたものをもっとキュッと締め付けられるような苦しさを感じる。


「そこで、様々な規定を根本から見直す姿勢で、その先を見つけたい」
と田中さんは言っていた。


規定を疑うという制作手法の楽しさの先に、デザインのその先を見据えていることに気持ちが明るくなった。

そう、何で私が、デザインの持つ規定(建築でいう法規や構法)に対して疑いを持っているのか、そこに喜びを見出しているのかというと、そこに「次」を感じているからかもしれない。

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そんなことを、門脇さんの自邸から帰ってきて考えていた。

門脇さんがなんども口にしていた「三歩あるけば忘れる」という言葉と生態系が私の頭の中で、ふと出会い、

あれは、「その次」のための建築なのかもしれないと思った。

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門脇邸には、空間の受け取り方に強制力を感じない。メーカーの展示場のように、それぞれ自分の役割を担っていてサバサバと陳列している。私は、そのような展示場が大好きで、そこから膨らむ妄想が、創作意欲を掻き立てる。

実際、門脇邸を巡る間、階段を上がってから、キッチンへ、そこから段差の下へ、と動く間、目線を動かす間に次々に現れる。さっき見た物について考えていると、次に出会ってしまう。
忘れるというか、スイッチを切られるような感覚で、さっきの延長に次があるわけではないから、考え続けられない。些細なものの散り、ではなくて、細部によってシークエンスが作られている。そのシークエンスの中には、隣家の柵や色なども含まれており、建物の中に含まれるスケールをシークエンスの中に散りばめることにも繋がっている。

シークエンスといっても、ダイナミックなものではなくて、小川のよう。いろんな大きさの石に当たりながら、時にゆるく、早くと、そんな水の流れのよう。

この状況が「三歩あるけば忘れる」という生態系によってつくられた全体性であった。

物語性や劇性はなく、忘れるための流れ、というのだろうか。吉本新喜劇の、芸人の持ちネタをコラージュするように構成され、脚本はあくまでそれらが成立するように作られているところに通づるものを感じた。ネタとネタの間隔の調整によって互いが引き立ったり、関連づいたりする。その役割が新喜劇でいう、脚本だと思う。
(例えベタだが、私は吉本新喜劇が小さい時から見ていて、あの爽快感が好きなので大目に見てほしい)

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門脇邸にいる間、飛び込んでくる部分に対応していて、全体に思いをはせる暇はなかった。でも、帰ってからぽつぽつと思い出している。忘れていたけれど、スイッチを切られただけでたまにオンにすることができる。

それは、日常生活の中で「しまった!」と思った時に「しまったしまった島倉千代子」が脳内で勝手に再生される事と似ている。門脇邸のことをそのように思い出し、私の中に取り込まれて行くのだと思うと愉快になってくる。

そうやって他者に取り込まれる事が、田中さんの言う「その次」だとしたら、この門脇邸はその次のためのデザインという働きを持っていると思う。少なくとも私にとっては、とても励みになる建築だった。


見学させてくださり、ありがとうございました。