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190316,17_鉄骨建て方

両日とも 早朝雨のち晴れ 13度

鉄骨の搬入があるというので、現場へ。
土日関係なく工事は行われた。

いつものバスターミナルを降りると、目の前にキラキラ光る鉄骨を乗せたトラックが。
これは、私の、、、!
メッキされた柱は想像以上にキラキラだった。

現場に着くと、トラックが、敷地まで来れず近所で積み替えを行うとのこと。
その時知ったのだけど、「2tトラック」といっても4t並みの大きさだったり、ロングだったり、ワイドだったり、積載量と車体の大きさは無関係だということ。
4tロングワイドの車体の割に、積載量は2.7tだったらしく、これがトラックの面白さか〜〜とか理解してしまった。(?)

車体の大きさが、トラックの運転手にとっての何かなのかもしれないし、日本を行ったり来たりする間の相棒だと考えれば、特に合理性は後回しにしたって構わないのかもしれない。

敷地は、海岸に面していて、南北にずっと護岸壁が連なっている。

海の方から建物を眺めてみる。
白い住宅の背後、かすかに鉄骨がのぞいているのが本設計。

この景色こそ、この街だ。とグッときた。

海苔工場・新築の住宅・少しレトロな住宅・国道沿いのマンション・工場の倉庫・そして半麦ハット

屋根の色も、素材も、形もみんなバラバラ。
調和せずに(調和という言葉すら知らないかのように)肩を並べている。

この街で、何か象徴的なシンボルを拾い上げることに気持ちが向かなかった理由がこの風景にあるのかもしれない。

だからと言って、みんなの共通点や特徴をわかりやすく拾い上げることもしたくなかった。
バラバラという言葉に、大げささを感じるほどに、自然に独立している建物。これを、一つの住宅で語ることはふさわしくない。

この店舗兼住宅としての建物をきちんと建たせることが、私の使命のように感じる。
ただ、独りよがりのオーダーメイドを作っていくことは選ばない。それはどうしてなのか。
それはこれが「建築」だからかもしれない。

建築は、絵画や家具のように、置かれる「場所」を予測しない(機能は予測する)。
必ずどこかの地面の上に現れる。
コルビジェが、母の家を建てる場所をずっと探していたように、場所と建築はどうしたって関わってしまう。

そこで私は、ひとまず敷地周辺を歩き回った。
歩いているうちに、この街の空気みたいなものを感じる。気になるものを写真に撮ったり、道に任せて歩いて散歩をしたり。
それを帰って、プリントする、スケッチに起こす、歴史を調べる。

これは、感覚に形を与えるフェーズ。
「らしさ」よりも曖昧な「っぽさ」の方がふさわしい。

そしてその「っぽさ」のファイリングを携えてもう一度歩いてみる。
無関係な風景が、ストーリーを持ち始める。
ここで気をつけないといけないのは、これはあくまで観察者(私)の中でのストーリーであること。この風景は無関係であること。
リサーチがデザインへ向かう間は、一編のフィクショナルなストーリーの厚みを重ねている時間。

そのフィクションの筆者であることと、その責任をもつために、風景が無関係である状況を心に留めておくべきかも。私は今、パラレルワールドを作っているということ。
少し意味がわかりにくいけれど、作家性(恣意性)について思うこと。

うようようよ紆余曲折したけれど、今から建つ建物が、他の建物と無関係にも見えるようにすること。それが大事かもしれない。

カケラがはがれる線は予測はできるが決まってはいない

と青井さんが言ってくれたように。

と、そんなことを思いながら、GLに立ってみる。
そうすると、敷地境界線の強さに少し戸惑う。

ポンと敷地に置かれている鉄骨。このまま進んだとしたら、これは商品に見えるかもしれない。
外構に手を加える余裕は予算的にはほぼないけれど、現設計のように綺麗に整えるのは少し違うのかもしれない。

その姿が、標本箱に入れられた珍しい昆虫のような窮屈さを感じる。
急に鑑賞者と鑑賞物になってしまっている。貴重か?いや、そうでもない、ただの家。

ということで、構え方について、少し考えてみるのが良さそうだ。