内容がないと自由になる

道端でイヤホンで通話してる人を見ると、反射的に嫌悪感を抱くんですよね。
この感覚、すごく年寄り?みたいで嫌なんだけど、パッと目にとまっちゃうんです。

こないだ地下鉄に乗る前に、そんな人を交差点で見てから、そのことを考え始めていた。

電車に乗るということもあったから、電車の中でも通話してる人に嫌悪感抱くよなーって思ってて、

「通話はご遠慮ください」なんて、ルール日本代表みたいなもんだし、当たり前に勝手に悪いと思ってる。

でも、電車の中で大声で話しをし合う人たちは沢山いるのに、「会話はご遠慮ください」とは言われないし、たとえ「大声で」と付け加えて言われたとしても、本人たちにはきっとそのつもりはないだろうから、会話はやめないだろう。


すごく当たり前だけど、
話している内容が分かるか、分からないか、
で不快かそうでないかは判断されてるんだなーと気づく。

電話だと、話してる内容が断片的でしかなくて、時によっては「はい」の繰り返しだったりして、それは聞こえてる側にとっては意味はなく、音に近くて、雑音として捉えるんだろう。

それに対して会話は、話してる内容は理解できるので、音ではなくてれっきとした会話で、イライラすることもあるだろうけど、
その内容によっては聞き耳を立てたり、自由に体に取り込める。

同じように話しているけれど、
他人にとってそれが、音なのか、会話なのか、

はたまた音楽なのか、

それがマナーの境界線を決めているんだと思う。

みんなこんな高尚で複雑なことを適当に扱えていることに、まじウケるー人間すげー、とひとりで感動していたおとといの昼下がり

関係なくはないけど、さきほど、
網守将平さんの新アルバム「パタミュージック」についてのインタビュー記事を読んだ。
https://www.cinra.net/interview/201811-amimorishohei/amp#click=https://t.co/YSe329XM89

音楽とはなんぞや
みたいなこと(ざっくりすぎだけど、)をメタではなく、パタに考える。

告知を今まで見てて、パタ って言葉が音としてかわいいと感じていたけれど、意味を知った途端「かわいい」から「すごい」と感じるようになってしまった。。

さっきまで、音だと不快、とか言ってたのに、なんだか矛盾しちゃった。まあだって、これとそれは良いとか悪いとかの問題じゃないんだもんな。そのような現象です、みたいな話