ゴードン・マッタ=クラーク展|ワーグナー・プロジェクト

昨日、国立近代美術館にこの展示を見に行った

学部生の時、事あるごとに名前を聞いていた、ゴードン、、だが、なんとなくSFみたいなコンセプチュアルみたいなざくっとつるっとした手触りを感じていた

彼の、樹のドローイングや、ツリーダンスを始めて見て、すごく人間的なやわらかい感触を得た

特に、樹につらされた網の中に座って動いている映像は、あんな風に網って動くんですか!?想像以上に生命感じるな、、!とじっと見入ってしまった

物質(網やペン)に、体(姿勢や描き方)が交わって生まれる自由さには、ただ人間や生き物そのものを見て感じる生命力よりも際立った物を感じる

ネット上で見ていた解像度とは、全く違って、展示は解像度が無限に高い(低くもできる)から、実際に彼が手で行為を施していることを知り、抽象と具体の関係としてとても興味を覚えた
やっぱり、スケールを身を以て感じることへの憧れは大きい

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ビルディングカットをはじめとした都市や建築の捉え方とその応答に関しては、今の自分のエネルギーの向く方向とさして変わらず、共感を覚えた

ただあの時代が、きっと今よりも表現に対して自由な社会であるような気がして、安易にゲリラ的に活動ができない現在を少し悲しくも感じた

だからきっと今は、法律といった社会の側にあるルールをハックすることでそれを開放するという向きにある

でも彼の行ったそれと、私たちが行うそれは、鑑賞側から見るとエネルギーが全く違うように見えている気がする
作者としては、同じような憤りを源に行っていたとしても、現れとしては綺麗に見える

きっと私たちは、自分に対して出木杉くんタイプという自覚がある

完璧(その目標はそれぞれ)なのはいいが、どこかいけ好かない感覚を、私はいつも抱いてしまう
そして、いつも先生(これからは他者)に「もっとやっちゃいなよ」「勢いが足りないね」と言われる

でも私は、思いっきりやったつもりなもんだから、(また定型文的言われたわ。他に言葉なかったんだな。)と、思考がストップしてしまう

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今回の会場構成は、小林恵吾さんという建築家で、私が気になっている建築家の一人でもある

去年だったか、彼が舞台美術(会場構成)を行ったワーグナープロジェクトを観たことがある
高山明さんのもと、「ストリート」を舞台とし、様々な若い表現者たちが、バトルし合う、そしてそこに街の人が立ち会う、といったものだった

最後の展示室に置かれた大階段を見たとき、その時の光景がフラッシュバックした

大きなスクリーンを前に大階段があり、そこに観客が座っている、その裏には小さな映像作品がスクリーンの足場にしがみついている
近くの柱にはまた別の映像が写り、断熱材で作られたソファの後ろの壁面は、裏の展示壁になっている、その関係が点々と転がっている

ワーグナーの時に目撃したあの光景は、ストリートとその裏(つまり建物内部)、という構成に成っていたもので、今回は、図録に書かれていたように「プレイグラウンド」まさにそのような感じだった

いくつもの映像作品がそれぞれに鑑賞方法、相互関係を持ち配置されている、その「配置」に関しては、とても共感することがあった
動線の絡み合い感や、内容の抑揚、

そのような抑揚はワーグナーの時もあり、それが舞台のムードを作り上げていたように思う
複雑で裏方と観客動線が混じり合い、地図などは配られないし、全体も上の方まで行かないとわからない、本当にストリートのようだった
ストリートでバトルするパフォーマーとの、ここちよい無関係さ(普通の鑑賞系パフォーミングアートは排他感を覚える)はきっと、その会場構成によって生まれていた

そこでおこなわれるパフォーマンスは、その器の中で転がり巻き起こる現象だった、もし違う場で同じイベントが行われたとしたら、きっと違う現象が起きていたと思う

それくらいあのストリートは、ワーグナープロジェクトの大切な緊張感を担っていた

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今展示で、ゴードン・マッタ=クラークに対しての私の印象は、「物の大胆な切り取りと繊細な現象」だった
ビルディングカットにしろ、覗き見のビデオにしろ、ゴミの煉瓦(タイトル曖昧ですが)にしろ、手段はとても大胆すぎるが、そこから生まれる現象(現地の人や観客の感じるものや、作品の形態・あらわれそのもの)はとても繊細に感じた。

四角に切り取られた天井から見上げる上階の天井は、パースのかかった断面が額縁のようで絵画のように見えたり
覗き見から感じる他者の動きに、自分との親和性を覚えたり
ポンピドゥーを背して建造物が穴をあけられている様子を見上げる街の人々とか

その感受がとても楽しくて、なんども見返してしまったりした

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それが、最後の展示室だけ、少し散漫になってしまうことが気にかかった

会場構成が、たくさんのことを喋っていた

先ほど書いたように、「配置」は自由で面白く、長い動画を行ったり来たりふらふらと、気兼ねなく鑑賞できた

喋っていたのは、それを形作っていた材料と加工方法のような「意匠」

工業製品を使い、その組み合わせや、接し方を既存の用途とは変化させることで、物の見方をかえることは面白いかもしれない(私もそんなことを考えているし)
ただ、調和を目的としていないこと(図録にあったような「ドラム缶」の例)がムードではなく、手法になっていた
それによって、鑑賞者としての私は、大階段とその裏のショーケースに映された映像の妙にとらわれて、作品に身が入らなかったり、
クッション案外気持ちいやん、とか思ってそれからいろんな思考をめぐらせてしまったり、
食のコーナーの展示台が逐一違うことが気になって、なんだ、どれも足に乗せれば台になる、ということをやりたいのか?なんてつい探ってしまった

図録を読むと、コンセプトは分かる、分かるよ!となった
けど、ゴードンマッタクラークの持つ質と、会場構成の質が、紙一重のところですれ違っている気がした

それが、パラレルワールドとしての会場構成ではなくて、隣車線を脇見するような関係になっていて、ずるずると気持ちが散ってしまったのだと感じる

即物性(安易な言い方しかできなくてかなしいが)が共通項だとしたら、そこからのずらし方がキーなのだと思う
現代的な即物性が、あのような素材の扱い方だとしたら、もうひとさじの繊細さが必要な気がした

スケール感なのか、出典のアバウト感なのか、大味で端正なディテールなのか、 その質がとても曖昧だった

最後まで、一番謎だったのが、随所にあった「蛍光ピンクの着色」
什器にも、あっちには塗ってないがこっちには塗ってある、他は素材な色だが、この色の出典はなんだ?何かの補色なのか、
深読みがますます深まるばかり、、となって最後は会場構成との問答に翻弄されすぎてしまった

会場構成の意図にがっつりはまってしまったのかもしれないが、展示ー会場構成の関係が改めてわからなくなってしまった

特に、今回は扱う素材への興味に共感するだけに、慎重に懐疑的になってしまった

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特に近代美術館の最後の展示室は、いつだって混乱する(記憶に残るのは、高松次郎展、日本の家展)

あの展示室は、原っぱなの?だとしたら自由すぎて怖い、遊園地として捉えたい、とか思ってしまう

会場構成を担った、デザイナーのエネルギーがあふれていて、少し胃もたれしてしまう
そのあふれ方は、どこか出来杉君的な、隠蔽感を覚える
主題をそらされたような、展示としての会場構成ではなく、作品としての会場構成へと
それが目的ならそれはそれでいいのかなあ、
それならそれで、展示を平等に尊重する手ほどきを行うとか

出来杉君のこと私はあんまり知らないので(ドラえもんの漫画読んでない)、出来杉君がなんであんなにいけ好かないのか気になっている

たぶんきっと出来杉君はのびたとかジャイアンに憧れているんだろうな、私もきっとそうなんだろうな、

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会場を出たところにある「みんなのゴードンマッタクラーク」(正しくはなんだったけ)という、SNSでいろんな人が投稿するコーナーに見られる写真なんかは、「あれ?ゴードンマッタクラークってなんだったっけ?」ともう一度展示を見返したくなる写真たちで、一瞬トマソンとごっちゃになって混乱してしまったりもした

ゴードンマッタクラーク自体がはっきりとわかりやすかっただけに、変なことで思い悩んでしまった、から、せっかく二回目500円だしもう一度見に行ってもいいのやも