たたかいの朝

やっと、建築家 板坂留五として、制作する決心をしました。

昨日行われたJIAの講評会、結果は無念にも二次に残れず。その後の懇親会で、審査員長の難波さんとお話しする機会があり、「通したかった」と言われるもそれはもうどうにもならないので、という感じで、今後の話やサイディングの話などをしました。

私が悔しかった理由は、少なからず上に上がれなかったこともありますが、一番話したかったこと、伝えたかったことが話せなかったことでした。


それは、プレゼンでも伝えたことですが、「カケラ(サンプリング)があることで、今までの建築設計のセオリーを自然と乗り越えられる実感があった。」ということです。

昨日の会のみならず、建築科の学生の多くは「街のサンプリングから建築の再構築」を試みます。その中には、免罪符的に扱っている作品もありますが、少なからず私は、その方法でしか作ることを許されないのです。許されない、というのは、私が私に、です。

しかし、このスタイルは、流行のように扱われているのが現状です。特に、大人たちには、ただの学生の余暇としか思われていないのです。(現場ではそんな時間はない、できっこない、という実現性に対しての意見なのでしょうが、それがサンプリング自体の批判に繋がってしまっている。)現に昨日の会でもその雰囲気を感じました。

そう扱われていると感じた学生は、また新しい流行に変わっていくのでしょうか。でも、私のように可能性を感じている人は、ずっと続けていくと思います。


「社会が私たちに追いついてない」という決まり文句は、好きではありません。

かっこいいけど、逃げてるようにも思えるし、自分を棚にあげることはまだできません。だから、対等に語り合いたいと思います。対等に、がいつになるかはわかりませんが。

実施だから、架空だから、そんなこと関係なしに、サンプリング勢(といわれている人たち)と建築界の間にあるなにか塊に、風穴をあけたかったのです。

それが、自分の力によって果たせなかった。それが一番悔しいことでした。

サンプリングは、今までの建築設計にのせて走らせるには、ノイズが多すぎます。でもそのノイズを消すことは、サンプリングの意味を成しません。

「恣意的だ」と言われますが、その恣意性を省こうとすればするほど、サンプリングの対象が意図的に抽象的になって行きます。まちづくり、と、サンプリングは似て非なるものだと考えています。

まちづくりは、共通項「見慣れていて見えているもの」をさがして共有すること。サンプリングは、「見慣れていて見えていないもの」をさがして現すこと。共有は強いるのではなく、起こることだと考えています。


それを私は「カケラ」と呼んでいます。


カケラは、フレーミングなしに採取されるため、採取されるかされないかは作家に問われます。本人の意図でしかありません。それを自覚するべきです。それを間違いだとして、最初にフレーミングをして行うことは、結果ありきの過程でその自作自演たるや。そんなの、歴史的文献を読み漁って見つけるほうがよっぽど誠実です。

自作自演であることを、いっこうに否定する建築家(以前は私もそう思って尽力していました)は、より世間離れした「正解しか言わない人」になります。

どう転んでも自作自演なのですから、サンプリングしてきたものたちと、とことん真面目に向き合うべきだと思います。

その結果、今までの建築設計の方程式とは全く違う方法にたどり着くことができると感じています。方程式は全く違いますが、根底にあるのは建築的思考ですし、それがあるからカケラを扱い建築をつくることができます。

そうであると信じて、今、建築を設計しています(本当に)。


「修士制作」という仮面をそっと置いて、初めての「実作」としてこれからもパワーアップしていくことをここに誓います。

自分にとってとても大切な作品になることは間違い無いですが、建築にとって、もしくは誰かにとっての何かになれたらいいな、と思います。


向き合うべきは、これからの実施設計。これから建築家「板坂留五」として、今まで憧れだった建築家たちと同じ土俵に立つこと。

昨日話せなかったことを、評価されるーするではない、フラットに堂々と話し合えるのだ!と恐さとともに嬉しさで胸がいっぱいです。


Taiko Super Kicks「たたかいの朝」


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