キラキラひかる〜

もう三週間も前になるけど、大学で持ってる授業の一環でレクチャーをした。
1時間ちょっと自分の学生課題のことから今までのことを話した後、
生徒からの質問をもらうというのがあった。
その時にもらった質問に対して、うまく答えられなかった、
というか、それ以外の答えも自分の中にあるなあ、ずっと心に残っている。

ということで書いてみよう!と思うー

「好きなもの(空間・事例)を作りたくても思うようにできないことがあるが、どうすればいい?」

わかるよーわかるわかる、とみんなが思っていただろう。
私もそう思ううちの一人で、焦点を絞った方がいいなと思ったので、
「何に関してそう思う?」と問い、
すると課題に関する作りたい空間のイメージに対してのことだった。

そういうことは、実際もたくさんあって、その時は、
「自分のせいにするんじゃなくて、他人のせいにしたっていいんじゃないか」
と返したと思う。
課題がたまたま合わなかった、というような、
どう頑張っても条件が合わなくてそうならないことはよくあるから。

むしろ、その条件の齟齬の中でも無理やり作りたいものを実現するよりも、
そうではない方向を選べる気持ちを持っていることの方が
私はずっといいと思う。この一言を付け加えるのを忘れてしまった。

でももしかしたら、自分の技術の問題でそうできなかった場合もある。
でもそれはやっぱり頑張るほかないだろう。
その時は、自分の出来栄えと理想をずっと並んで見比べて違いを探す。

私の場合、その試行錯誤の末に、
卒業制作で大きなアクソメドローイングを書いた。
これを書かないと、満足に卒業制作を提出できないと思う自分のために、
もう手を入れたくないという状態を目指した。
そうしてできた作品は、理想(参考)にしていたものたちとは
全く違うような様相をしているのに、圧倒的に面白いと思える。

かつて修了制作を始める頃、
自分の趣味嗜好 と いいと思う「空間」の質 のギャップに苦しんでいた。
これはめちゃくちゃ当たり前の悩みなんだけれど、
私は、古着や古道具が好きで、
特にそれらの色や素材のユニークさ、その組み合わせで起こる楽しさに興味がある。
なので家も服装もごちゃごちゃしている。

かたや一方、空間といえば、シンプルなものに居心地の良さを感じる。
「プロダクト」というような「デザイン」されたものに関してもそうだ。

その自然発生的なものと計画学的なこと、それぞれの面白さの間に一枚壁が立ってしまう。
そんなことに学生の時は悩んでいて、
計画学的なことを澄ました顔で作っていくであろう私の将来は、
不純なのかな、なんて迷走したりしていた。

独立してからは、大学ー家という行き来がなくなったことが大きくて、
同じ空間に双方のものが併存することになる。
いや、もしかすると前から併存してたのかもな?という自然さでそれらはある。

私の身体がそれらを行き来する感覚に自覚的であれば問題はないし、
そういう自覚さえあれば、つくるものもどちらかに偏ったり、
拒むような空間にはならないだろう、ということがわかってきた。
あと5分ほどで家を出ないといけない。
計画学的とか自然発生的と話したのは、さっきゼミがあったから。
春から法政大の都市デザイン科の助手みたいなことをしていて、そういう言葉が出ていた。

大学で教えたりすることが急に増えたこの春、
やっぱりアカデミックな世界も面白い。
概念が生まれる瞬間に立ち会うというか。
誰かに伝える時には、言葉や図を作らないといけなくて、
そのことにもっと悩み議論して、
こぼれ落ちてしまうものを表現するかのような言葉や図を発見していきたい。

こぼれ落ちることを防いでは、物事の美しさはなくなってしまうと思う。
(急にめっちゃナイーブ笑)
でもガバガバ落としてしまっては、単なる泥で、
網から落ちた粒がキラキラと見えるような、細かい目を目指したい。