190123_地鎮祭

晴天(風あり)10度

8時半に家を出て、祖父母とスタッフをピックアップして淡路へ。
途中SAに寄り、10時半過ぎに敷地到着。

松帆神社さんに地鎮祭を執行ってもらう。
いくつもの儀式が順々に行われ、無事に終える。
初めて「えいや、えいや、えいや」と声かけをした。
設計者は、草を刈る所作を行う。最初に空き地を整備=設計する役目だそう。
なるほど。家を建てるまでの過程か、と思うとその所作に納得がいった。

神様を降ろす儀式の際に、雲間から太陽がピカーんを差した。そして風が吹き出した。追い風だったらいいな。
そして神様にお戻りしていただく儀式の時に、ビューっと風が吹く。
いつだってそんな偶然はあるけれど。
つい「神様、、」と思ってしまうのも、本当のことだったりする。

地鎮祭を終え、近所に挨拶回りをする。
挨拶をしたい人が、みんなちゃんと居てくれて、よかった。
いつもは居ないのに、今日「は」ちゃんと居てくれた、気がした。

搬入路についても、なんとか方針がたちそうで安心。
「田舎」ということと昨年のいざこざで、不安だったけど、結局会えば皆良い人だった。

供物としていただいた鯛を近所の鮮魚店で捌いてもらった。
こんなこと慣れっこなんだろうか。今まで、生活の中に「地鎮祭」なんて絡んだことなかったから、魚屋さんまで関係することに少し胸が踊った。

淡路工舎さん(工務店)事務所まで打ち合わせに行く。
いろいろ確認してると、この打ち合わせに合わせて水道設備屋さんもきてくれた。


設備屋さんと工務店が「半麦ハット」について話している。
私に「半麦ハット」の配管経路の提案をしてくれている。
私が考えたものが、完全に他人の頭の中で同期されている。
しかも、その頭の中でアップデートされている。
なんで、初対面のあの人が、ここが下がっていることを当然に知っていて、それについて真剣に考えられているんだ、と当然のことに度々びっくりする数時間だった。

私が育てた魚が、一人で勝手に泳ぎだしている。
確実に大きく、深くなっている。そんな気分に近い。

私の知らない一面(共有してもらうわけですが)を、持っている。
そう思うと、建築はやっぱり一人で作るものでないと確信した。
私が考え、工務店が作り、施主が住む、という各段階でみんなが関わる、ということだと思って居たけれど、そうではない。
私が考える、工務店が考える、施主が考える、という風に、みんながそれぞれにとっての設計物を同時に考えていた。

ただし、それでは一つにならないから、設計図という指針であったり、打ち合わせなどで軸を確認し合うことが、重要であり、それは建築家の仕事なのだ、と。迷った時の標語のように、私の言葉は繰り返される。
この打ち合わせは、矢印が行き交うような伝達ではなく、矢印がぐるぐる回る同期(ちょうど、バックアップやgoogle driveのアイコン)に近い。


兎にも角にも、
自分の魚が、勝手に泳いで大きくなっている
ということが、とても面白い感覚だった。

本当は、どのように大きくなるかを決めるのが、建築家なのかもしれないが、今はまだ、大きくなるための魚をどうやって生み出すのか、に建築の面白さを感じ始めたばかりである。