190524

晴れ

ヌケについて

最近気持ちがもやってばかりいるのだけど、それの原因が、「ヌケ」だと思われる。
今、ヌケが無いように思う。

まだ、外部の庇空間がついてないことや、壁仕上げがついていないからかもしれない。

ヌケ、
あか抜けている
空間が空いている
とぼけている

いろんな捉え方があるけれど、どのヌケも心地よさを作ると思う。

変に、真面目すぎて、ぎゅっとしているような気がする。
詰まっている。

もうちょっとあか抜けた、ラフな服の着方をしたいのに、
裾をまくっても、チンチクチンに見えたり。
一番上のボタンを外しても、広げ方がぎこちなくて芋っぽかったり。
なんだか、雑誌の受け売りみたいなコーディネートをしているかのよう・・

と言っても、受け売りできるような定番の納まりはなく、
それができる場面がないので、
初めて着物を着た西洋人が、持っていたデニムを合わせるような、未知の領域に近い。

そういうと聞こえはいいけど、だからこそ判断していかないといけないんだ。。


今日は、温室メーカーの人が、サッシの直しをしに来ていた。
昨日は、メーカーの下請けの職人さんが来ていて、少し不安な点があったから今日チェックに来てもらった。

思ったよりもすんなりと直してもらえて、ホッとした。
怒られるかな、と思ったけれど、案外きちんと仕事をしてくれた。

昨日の話ではないけれど、既製品を使うということは、いろんなリスクが伴うのかもしれない、と感じる。
それは、コミュニケーションの省略。既製品や使用要領があるものは、書いてあるマニュアル通りに施工すれば成り立ってしまう。

安心だし、早い。それに明確。
それに対して不満を抱いた時、それをマニュアル以上のことを要求しているような気がして、なんとも強く言えない私がいる。

それはよくない。きっとあり得ない。

規格ベースでそれの組み合わせや読みかえで「設計」することと、「施工」することは、「マニュアル」の捉え方が全然違う。
設計の段階では、マニュアルはルールだが、施工の段階では最低限の仕様。仕上がりか綺麗かどうかは、マニュアルに関係なく、職人次第なのだ。

めちゃくちゃ当たり前のことだけど、今まで職人の気質でさえルールのように捉えていた。

先日、日経で上田岳弘さんが書いていたことを思い出す。

無意識に諦めているのかもしれないなあ、と思うようになったので、最近は意識的に能動的になるように努めている。

でもこの無意識に悪気もなく諦める性質には、何か可能性がありそうで、そんな時にふと、卒業制作で「無作為」を手段に選んだことや、「生きられた庭」のフィクション性みたいなものを思い出す。


能動的 客観性 愛 
そこらへんが最近頭にある言葉


※何か主題がないとかけない、みたいな気持ちに一時期なってたけれど、やっぱり日誌なのでつらつら書いてみようと思う。